私の場合は写植ではなく活字の清刷を貼り込んだのちB5判(内枠天地219mm)に縮小製版した写真凸版という「想定」で制作しております。 使うDNP大日本印刷の秀英体が字面が大きく見える書体でもあることから原寸換算で20Qに近い14ポでは大きく、それより一回り小さい四号(13.125ポ、約18.4Q)ぐらいかな…と考えておりました。 しかし大正時代からポイント制を推進していたDNPは1958年に早くも号数活字を廃止し、同社が13ポ相当としていた四号活字はこのとき消滅。以後は12ポと14ポ活字はあっても13ポ活字がないラインナップであったことを先日知ってしまい、どうしようかと頭を抱えております。
手元の谷口ジロー作品でみる漫画の写植。内枠天地270mmの投稿用原稿の原寸換算で、「グッドラックシティ」(1982-1984、講談社コミックモーニング)は現在標準とされる20Qでしたが、「ENEMIGO」(1983-1984、秋田書店プレイコミック)や「坊ちゃんの時代」(1987、双葉社週刊漫画アクション)は18Q、さらに「孤独のグルメ」(1994-1996、扶桑社パンジャ)は16Q(!)の上に詰め打ち多用、という塩梅でした。
当時新聞部の後輩の副部長が部室で語っていた記憶が一番鮮明ですが、いまや太古の高校生のころ、「自分たちのいっこ下の学年から少し変わった」というフレーズを、私を含め時折口にしていたように思います。その後も私よりずっと若い世代が同じようなことを口にしていておやと思ったことがありましたので、恐らく少なからぬ人たちが10代後半にくぐり抜ける感覚なのでしょう。
10数年間の子どもの時期に、情報と体験を次々に得て把握した「私のこの世界」と異なる、それよりも新しい別の「この世界」の存在を初めて感じたあのときから幾星霜。果てしなく増える「より新しい『この世界』」を最初は無意識に、次第に必死になって追い求める年頃がしばらくありました。
その時代も過ぎ去りつつあるいま。俗世で禄を食まねばならぬ以上はと、自ら進んで新旧の「別のこの世界」を積極的に追う稼業になお従事しておりますが、同時に個人としては、一人の頭脳では抱えきれないほどにふくれあがった「この世界」を一つずつ整理し、削り、捨てていき、彼岸にまで持って行けるたった一つの「私のこの世界」を再び構築していくプロセスに入ったことを実感しています。私にとっての漫画の作業は、そういう位置づけです。
「お盆に思う」
https://sozertsaniye.blogspot.com/2024/08/2408c.html
#たゞ玉響の夢
世相相変わらず不透明な昨今ですが、個人的に節目となる来年夏を目指してこれまでの「たゞ、玉響の夢」を少部数ながら本にまとめられたらと考え、本編の第3回と2ページ建ての「ぷち」7話めを、同時進行でぼちぼちながら進めております。
もとより需要無視・不採算前提の制作活動で、数を捌かんと同人誌即売会などの疑似商業出版的なメインストリームに無理をして合わせる気もさらさらございませんので、Fediでフォローしている方が利用されているショップなど参考に、頒布のチャンネルを確保しようと思っております。
種々問題を起こしていながら、最後まで手つかずに残っていた懸案のPixivを、Fediverseの投稿で存在を遅ればせながら知った凸版系のXfolioにすべて移転させ、一昨年のTwitterの混乱に端を発した2000年代発祥「オールド・メディア」からの脱却作業を漸く果たしました。これにあわせてサイトのほうも少し加筆修正しております。
「画像の差し替えすら有料」という、ベンチャーメディアにありがちな「姑息な制約で小銭稼ぎ」がないだけでも、Xfolioは快適に感じます。
この歳になると周りを見渡しても感心するほど腰が重くなるもので、新しい環境へ足を踏み出すことを面倒に感じ、噴出する問題に日々我慢し耐えながら慣れ親しんだ所に座り込み続けるという、若い頃にはあり得なかった判断をついしがちです。
「あの頃の常識はもう常識ではない」。FediverseやBlueskyで拝見する若い人たちの行動力を見習わねばと日々痛感しております。
Xfolioのアカウントはこちら→ https://xfolio.jp/system/recaptcha?creator_code=sozertsaniye&portfolio_path=/portfolio/sozertsaniye&org_domain=xfolio.jp
ついこの間のように思える日々がこれほど昔ならば、この先の時間があっという間に消え去ってしまうだろうことも、容易に想像がつくというものです。
『40年ほど昔のきのう』
https://sozertsaniye.blogspot.com/2024/06/2406a.html
>BT
私めこの歳で復帰した稼業が海千山千やヤカラ体質(肩書きにかかわらず)が相手の局面もあり、得意ではないものの論理的に攻めないと逆にこっちが潰されかねないスリリングさも味わえるところではありますが、少なくとも自分自身はその根底に「感情」がないと、腰が重くなって動けないと感じております。
論理的であることは「それは流石にアカンやろ」等々の内なる感情を具体化させる「単なるツール」に過ぎず、人がこのけったい極まりないシャバで何事かを成そうとするときには両者がともに一体でないと駄目なんだろう、という気がしています。
数日前の「今日の日はさようなら」のBluesky記事が、恥ずかしながら老眼で気づかずサイトへのリンクの末尾ひと文字がなくなった状態で投稿してしまったため、エラー(Ошибка)ページに飛ぶ仕儀と相成りました。
ここで存在をすっかり忘れていたエラーページを、お詫びを兼ねて少し手を入れまして、紹鷗森高1年7組カルテットの絵が表示されるようにしました。最初はそんなつもりはなかったのですが、結局45年ほど昔の漫画同人誌の表紙風(?)になりました。
「Ошибка 404」
1970年代に広く歌われた「今日の日はさようなら」。
歌詞の「またあう日まで」に、いつでもまた、同じような日を送ることができると思っていた、若者ならではのあの頃の感覚がよみがえります。現実はそんなことはなかったのですが。
以前に夢で見て思いついた「吹き出しなし」でねちねちと1ページ描いてみました。でもだからといってやっぱり「バンドデシネ」にはなりませんね。
『たゞ。玉響の夢・ぷち-今日の日はさようなら』
https://sozertsaniye.blogspot.com/2024/05/blog-post_22.html
>BT
またもや昔話で恐縮ですが、陸上自衛隊のとある駐屯地の司令が教育隊に入る新人隊員に訓示して曰く、「君たちはこれから長い自衛官生活に入るが、だからこそ入隊以前のそれぞれの友人を、より一層大切にしなければならない」。
世間に出てからの知り合いは、霞を食っているわけでなない「生活者」である以上当然ながら、互いに稼業という利益活動が属性としてついて回ることは避けられなくなります。
私も20代のころは、それ以前の「友人」と、シャバに出てからの「知人」の境界線がなかなか付きづらく大変な思いをしたこともありましたが、齢を重ねると人間そんなもんやと適当に調子を合わせたりできるようになってしまったのはなんともはや。
ときに件の司令は、そのお名前からして如何にもなガチガチの自衛官かと思いきや、人が「組織人」になってしまうその悪弊を理解し、それを説くことができる珍しい司令でした。
橘 思默(たちばな しもく)
創作協会セゼルツァーニエ出版所
Симоку Тачибана творческого объединения «Издательство „Созерцание“» активный старый тележурналист новостей.
Помни о смерти.
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