「大量導入」が限定条件の様に一見見えるけれど、丹菊逸治氏は日本を既に「大量」とみなしているから、仮定ではなく、現在の話をしている。
日本の支援体制や労働環境条件を無視して外国人労働者の導入と、労働環境の悪化の結び付きを、氏は必然の因果の様に語る。
この種の語りは珍しくないのかもしれない。支援に関わる人に採用されている事もあるから。
https://x.com/itangiku/status/1803770694028943479
安楽死と、福祉制度で救えたかもしれない命
カナダ。同じ病気の2人。
どちらも安楽死を申請したが、一方は住まいを得て死を回避……
福祉の不備が選ばせたものを安易に本人の選択と呼んではいけないと思う…
「化学物質過敏症に苦しんでいたという女性は、コロナ禍でアパート住民たちの在宅時間が増えたことにより、換気口から入るタバコやマリファナの煙で症状が急速に悪化。カナダには、障害がある人に安全で家賃も安い住まいを助成する福祉制度があるため、2年間も担当部署に訴えたが、かなわなかったという。そんな時、安楽死の要件が緩和されたため、自分も対象になると申請。そのまま安楽死となった。
同じ病気で困窮しつつも助かった人もいる。この女性は7年前から助成金の出る住まいに移ることを希望して申請していたものの、対応されないまま時間だけが過ぎていたという。そんな中、安楽死を申請。幸い、支援者たちのインターネット募金が成功してホテルに移ることができ、安楽死をしないで済んだ。が、安全な住まいに移るための申請と比較して、安楽死の申請手続きは驚くほど簡単だったという」
https://maga9.jp/240124-1/#google_vignette
児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』を読みました。
医師の幇助による自死が可能な国々で起きている、私が安楽死というものへのイメージとして持っていた「耐えがたい痛みに苦しむ終末期の人が救済策として望む選択」とはかけ離れた現状と、様々な実態についての懸念がまとめられています。
法的要件のルールがどんどん緩和され、社会的弱者への圧力とならないように設けられていたセーフガードが取り払われながら安楽死の対象者が拡大してゆく中、医療現場では安楽死容認の指標が「救命できるか否か」から「QOL(生活の質)の低さ」へと変化し始めている実情などが示されている。
そして安楽死対象者の拡大と指標の変質は、「障害がありQOLが低い生には尊厳が無い」という価値観が世の中に浸透していくことに繋がり、命の選別と切り捨てへ向かうという強い懸念も。
医療や福祉の支援があれば生きられる人たちへ、社会福祉が尽くされないまま自死を解決策として差し出す恐ろしい現実がすぐそこにある今、児玉さんの「安楽死は「賛成か反対か」という粗雑な問題設定で語れるものではない」という言葉が重く響きました。
BTs、ヨーロッパにおける「合法的な安楽死」については、児玉真美さんの『安楽死が合法の国で起こっていること』を読んでから、イメージが全く変わってしまった。
「終末期の人が、救済策として望む選択」とはかけ離れた恐ろしい状況で。
◆「耐えがたい苦痛がある」という指標があったはずが、今では「生活の質(QOL)が低い」ことに拡大されてしまっていること。そのため、福祉制度や支援があれば生きられる人に対して、驚くほど簡単に安楽死の申請が受理される状況。
◆更には患者への治療が「無益な治療」と判断され、自分の意思を表明できない人たちが続々とドナーとされていること。安楽死後の臓器提供という「人体の資源化・有効活用」が起きている。
スイス、オランダ、ベルギー等の安楽死「先進国」をはじめ、カナダなど合法化された国での様々な実情が書かれています。
「尊厳死」が認められたら、瞬く間に「すべり坂」を転がり落ちてゆくとしか思えない。絶対に反対です。
その「人の手」は誰?動員された朝鮮人で関東大震災で虐殺されたことには一切触れず100年ってなんの意味がある?
人の手で開削「荒川放水路」が通水100年 東京で記念イベント | NHK | 東京都: https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241012/k10014608411000.html
「社会保障費の削減」という文脈で、「ナマポ」発言と同時に、「私尊厳死協会に入ろうと思っているんです」と言った石原伸晃という政治家も「誤解を招く」と言ってたね。
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石原
「一言だけ言わせていただくと、私はね、尊厳死協会に入ろうと思ってるんです。尊厳死協会に。やっぱりターミナルケア。これからどうするのか。日本だけです。わたし誤解招いたんです、この発言で。私はやっぱり生きる尊厳、そういうものをですね、いったいどこにおくのか。こういうことも考えていく。そこにいろいろな答えがあるんじゃないでしょうか。」
https://lessor.hatenablog.com/entry/20120911/1347382542
こういう文脈における「自己決定」という概念の欺瞞については、この本がとても参考になった。>BT
【増補決定版】「自己決定権」という罠――ナチスから新型コロナ感染症まで|小松美彦・今野哲男 著(現代書館)
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-3585-4.htm
安藤泰至『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』岩波ブックレット
現代において安楽死や尊厳死の合法化を推進しようとする人々は、自分たちの主張や運動がナチスドイツの蛮行と並べられることに憤慨する。また、自分たちの主張を広く行き渡らせるために、ナチスのそれを連想させるような「安楽死(euthanasia)」という言葉自体を避けようという傾向も広く見られる。彼らの主張によれば、自分たちが求める安楽死とはあくまで本人の明確な意思に基づく自己決定としての死であって、優れた生と劣った生を峻別し後者を排除しようとする優生思想や、本人の意思に反して医師や国家権力によって「生きるに値しない」いうレッテルを貼られた人々を殺害していったナチスの「安楽死」などとは何の関係もない、ということになる。 しかし、本当にそうなのだろうか。
https://www.iwanami.co.jp/book/b458060.html
太田典礼が作った日本安楽死協会は、1983年に日本尊厳死協会と改名する。↓大谷いずみさんの典礼論
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現在のホスピス運動、緩和ケア、生死の教育の論理の中に、死生学・生命倫理学の中に、典礼の叙述にみられるような、ある意味では単純な、しかし剥き出しの差別性を拭い捨て、より洗練された言辞で、より巧みな様式で、「社会の負担」となる者への、「半人間」への排除の論理を、それらは隠蔽しているはずである。
玉木を批判するのはいいのだが、「あれは尊厳死ではない」と、「尊厳死は悪くない」が前提になっているらしいことの方が怖い。「尊厳死と姥捨政策は似て非なるものだ」と玉木を批判している人もいたが、というよりむしろ、「尊厳死」は姥捨政策とは非なるもの、に見えて実は同じもの、というのが正しいと思う。
最後まで他責志向の人なのね。(知ってた)
Twitterで思わず、「おまえ。そんなもん何偉そうにひとごとみたいに言うてんねん。おまえの采配も一緒やんか」と岡田弁には岡田弁で返そうと、記者の投稿に対してインリツしそうになったが、自分で書いといてマジ偉そうやなおまえ。と思い直しこっちに投稿。(おい)
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2024/10/13/kiji/20241013s00001173023000c.html
サルトル+虎(タイガース)
https://sarutora.hatenablog.com/