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今まで住んでいた instance https://mathstodon.xyz/@sakaefuchino で日本語の toots を書くのが多分僕だけだったので,ちょっと申し訳なくなって,日本語の toots の一部はこちらに移すことにしてみた.更なる人格分裂が起こってしまっている. 

でも最近はまた,もときた
に戻りがちである.これは,向こうでは \(\LaTeX\) が使えることと,toots の再編集ができることが 大きな理由である.また,あちらでは,translate というボタンが toots につくようになったので,このボタンを押した時に起動する翻訳エンジンの deepL でそれほど言っていることと食い違わない翻訳がされるような日本語の文章を調節すれば,日本語が母語でない audience にも対応できる,という事情もある.

ちなみに,僕の toots には という tug をつけることがあるが,それは,ここで言っているような意味である: fedibird.com/@sakaefchn/109588 [参照]

というタグは,僕の用語では,multiversal な状況を示唆する,すごく一般的なキーワードです. が mastodon の instances を,sheaf の global sections に例えたこと (この場合 underlying topology は mastodon のプログラムに対応することになるのだろうか) ,に答えたものでもあります.

ただし,もっと狭義に,物理学的な意味での multiverse を指していることもあるし,set-theoretic な multiverse を指していることもあります.

コンピュータやタブレットを多用していると,コンピュータやタブレットが,それぞれ自分の分裂した人格の一部のような気がしてくることがありますが,次の post に という hashtag を付与しようとしているのは,そういった意味からです:

mathstodon.xyz/@sakaefuchino/1
[参照]

チャミスルといえば,パロディーとメロドラマのバランスが絶妙だったこれは
youtu.be/CZVk-uDalWw
ほとんどパーフェクトだったのに調子に乗って作った続編はそれほどでもなかったのは残念でした.

これは人間の集団でも他の類人猿の集団でも同じだと思うんですが,多分ボスザルが子分を増やすためのいちばん効率的な方法の一つは,子分になりそうなサルの前でいじめをしてみせることなんではないでしょうか.

chauvinist な男性教授というステレオタイプは昔は日本だけでなくて,いたるところで大手を振るっていたと思いますが,今はどうなんでしょうね.かげに隠れてしまっただけなのか,それとも別のもので置き換わったのか?

違いがあることを認識すらしていなかったのですが,発音して試してみたらちゃんと区別していました.日本語のピッチアクセントもアクセント辞典と比べてみるとほとんど 100% 一致するし (東京の山手の生まれなのであたりまえと言われるかもしれませんが,親の片方や祖母は関西系の日本語だったので就学前にはかなり関西よりの日本語を話していたと思います).いったい,こういうのを,いつどこで覚えたのかと不思議に思います.

年をとることのいいことの一つは,大昔に書いたことを忘れてしまっていて,昔の仕事が出てきてそれを読みなおしてみたときに,「このころの僕,なかなかいいこと言ってるじゃない」と思えることがあることである.シューベルトは年をとるより前になくなってしまったが,山のように書いた自分の作品を全部は憶えていなくて,昔に書いた自分の曲を聞いて自分の作曲だと気づかず,「この作曲家なかなかいいじゃん」と言ったとか言わなかったとか,という逸話が残っているのだが,そういう感じである.

実は今日

「集合論は矛盾する?!」

という,昔『数学セミナー』に載せてもらった記事 fuchino.ddo.jp/misc/set-theory
を読み直したら,これが起こった.もう10年以上前に書いた作文である.

「(記号としての)単語を入れ替えても意味が成り立つ」は,ヒルベルトよりずっと前から論理学の原理として認識されていたと思いますが,ヒルベルトが言ったのは,点,直線,平面を,机,椅子,ビールジョッキーで置き換えて _解釈_ しても (これらが公理を満たすなら) 同じ理論が成り立つ,ということだったのだと思います.

ちなみに,これはヒルベルトが言ったと他の人が書いているだけで,ヒルベルト自身の書いたものの中に見られる表明ではないようです.記憶に間違えなければ Blumenthal が,ヒルベルトがこれをある学会の帰り道に駅の Kenipe (居酒屋) で言った,とどこかで書いたのが広まったということだったと思います.
#数学

@michimochi@toot.blue 僕は母語は東京語なんですが,ドイツ語を第二母語 (zweite Muttersprache) と言うことがあります.第二母語なんてないと言う人には,次の話をします: 僕はベルリンで学位を取ったんですが,僕の指導教官はドイツ人の Professorin でした.ドイツのアカデミアには,学位をとった人の指導教官を Doktorvater と呼ぶというジャーゴンがあるのですが (Vater は英語の father に対応する単語), その言い方では,僕の場合 Doktormutter がいたことになります.しかも彼女は Burgsdorf という Hochdeutsch の発祥の地とも言われる場所の出身でもあります.それで僕はドイツ語が僕の第二母語だといえる正当性 (mit recht) があるわけです.

ちなみに,国の公用語を国語(あるいは、國語、국어、など)と呼ぶ国やその言語は、シンガポール のマレー語を含め、アジアには少なくとも5つは存在します.

この

『無限のスーパーレッスン』 の hyper-critique

と題した作文は,2014の暮れに書き始めたのだが,少しづつ書き足していった結果,結構長いものになってしまった.
文章の性質上,どこかに発表することは,これからもないと思うが,数学的内容は,他で発表したものと関連のあるものになっていることも,ある.
fuchino.ddo.jp/misc/superlesso

今日,数理研の講究録に投稿した論説
fuchino.ddo.jp/papers/RIMS2022

の introduction の最後に書いたことの,一般向けの説明になっているような内容を,この作文の第1節の最後に付け加えてみた:
mathstodon.xyz/@sakaefuchino/1

#数学 [参照]

この小説の中で言及されている雨月物語についても同じように整形して読んでみたいところなのだが, ではもうちょっとで公開しそうなところで止まっているので,もう少し待ってみるしかない. というラベルをつけてみているが,この場合の,江戸時代初期の日本語は,僕にとってオランダ語やスペイン語と同じくらいの距離のある言語なので実際に他言語である.

「オランダ語やスペイン語と同じくらいの距離のある」というのは,かなり異言語感があるという意味で言ったのだが,これは我慢して読んでみると結構読める,という意味でもある.小学校の頃,日本語がまだ完璧に分からなかった時に難しい本を推測しながら読んでいた時のデジャヴを見ているような心持ちがしてくるが,今はその頃にはなかった,タブレット上の辞書類の支援がある.

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Sakaé Fuchino さんがブースト

ではちょっと前から toots に "translate" というボタンがつくようになったんだけど,僕が英語を default language に設定しているおかげで,僕自身の書いた日本語やドイツ語での toots にも,このボタンが現れる.

翻訳のエンジンは deepL で,幸いなことに,日本語も (もちろん,deepL の出身地の言語のドイツ語も), deepL の扱える範囲に入っているので,機械翻訳したときにへんな誤解を生むような文章になっていないかどうかが,すぐチェックできて,とても便利である.

まあ,これがなくても,チェックするのは数クリックの違いでできるんだけど,目の前のボタンを押せばそれで o.k. ということの心理的負担の少なさは,あなどれない.

しかし,逆に,ボタンがあるとつい押してしまいがちである,というのは,実は結構あぶないことかもしれないんだが.

deepL は結構パーフェクトに近い翻訳を出力してくれることが多いので,これでチェックすると,deepL が本当にパーフェクトな訳文を出力する原文を作る,という遊びにのめり込んでしまいそうで,面白い遊びとしても,時間の無駄が過ぎる.書き連ねていると,文字制限がきてしまい,toot 長歌も成立してしまう.

skk を使っているのは主に日本語の話者だと思うので,こちらにも link しておきます. 

で toots の表示に自動翻訳のボタンがつくようになった.しかも,エンジンは である.

前の toot で佐藤春夫の「田園の憂鬱」について言及したので,ちょっと読み直してみたくなって,青空文庫から plain text をとってきて で整形してみた.

ある種の人々に聞いてもらえるためには,某米国前大統領のような論理的に破綻した話し方をしないといけないのだと思いますが,これができるには,話す本人が論理的に破綻している,というのではない場合には,かなり特殊な才能が必要になるような気がします.少なくともこれは僕には無理です.

逆に,理路整然とした,論理的で論旨に破綻のない論証を受け付けられない人/組織 etc.というのは (関西に限らず世界のいたるところで) 思いのほか多いようなので,この意見書を,駅が (内容に依存せずに,その理由で) 受け入れられない,という筋書きは十分にあるような気がします.

Federico Mompou について書いたのは,僕にとって2度目のバルセロナ滞在の,ちょっと前のことでした.この文章を書いたのが,もう10年以上前だというのは何か信じられない気がします.今みてみたら,ちょっと misleading な記述があったので,修正してみました.修正点は, html ファイルのソースコードを見るとわかります.fuchino.ddo.jp/barcelona0.html
--- URL を % encode し忘れたので,一度削除して書き直しました.

修正のついでに書くと,この文章で「郊外の憂鬱」と書いているのは,もちろん,Mompou の組曲「郊外」と佐藤春夫の小説の連想ですが,この間に美学的な関連がある,と主張しているわけではありません.

「郊外の憂鬱」ということについては,「Suburbis (II) 」と題した,上の作文より少し後でかいた文章にも書いたことがありました:fuchino.ddo.jp/kasugai.html#09

今度は注意して,最初から % encode したアドレスを post しています.

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