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どこに軸足を置いて生きていくのかは人によって異なるので、そのすべてに反論するのは難しい。ただし何点か押さえておくべきポイントはあると思う。たとえば以下。
①アメリカ自身が「世界の警察」を辞めたがっているということ。これが安全保障において、最も重要な点だと思う。
②数万人の子供を「テロリスト候補」として殺すことは国際法のみならず、いかなる理屈によっても正当化されないということ。民間人への攻撃はたとえ巻き込みであっても駄目なのに、民間人を直接ターゲットにするなんていうのは前代未聞。常軌を逸している。
③イランはあくまでもイスラエルと敵対しているのであって、パレスチナと「提携」しているわけではないということ(ハマスからのイランへのアプローチがあったのは事実)。実際、イランはガザで3万人近くなくなっても、自国の大使館が攻撃されるまでは「静観」していたでしょう。
だから「パレスチナのバックにイランがいる」から西側の秩序を守るためにイスラエルを支援する、という理屈は成り立たない。
④ネタニヤフ自身が「文明と野蛮」という定番の比喩表現で、ガザでの虐殺を紛れもないパレスチナの植民地化の一環であることを自白している。
⑤客観的に言って、この世界には「聖なる土地」や「(神によって)選ばれた人々」は存在しないということ。

最近はXでイスラエルの肩をもつ少数の日本人の言い分を積極的に聞いてみたりしている(どういう理路でそうなるのかぜんぜんわからなかったので)。まるでアメリカ政府のスポークスマンみたいな人から、世界秩序を憂いる軍事戦略家、聖書原理主義者まで幅はあるが、みんな冷戦以降のパラダイムに捕らわれている点で共通している。

車の中でウルトラ・マグネティック・MC’SのCritical BeatdownをCDで聴いていて、11曲目の20秒~30秒までの間にプロディジーのSmack my b*tch upの元ネタを発見した。なおオールドスクールでは字義通りではなく「問題に片をつける」という意味のスラングとして、そのフレーズは使われている(もっともポリコレ的に言うとb*tchをproblemとするのはそれ自体問題なんだけど)。思えばプロディジーはビデオでも精一杯性差別のほうにミスリードしようとしていたけど、そこはきっとセックス・ピストルズ由来のスキャンダリズムってことなんだろうな。

小沢健二と渋谷系の話題がたまたま続いたから誤解されたのかもしれないけど、私は別に90年代のサブカルなんてどうだっていいんですよ。これといって愛着がない。「サブカル」自体、本来は門外漢ですから。ストゥージズの『ファンハウス』とかスライの『暴動』とか「サブカル」に含まれるであろう特定のカテゴリーの中で、好きな人はいっぱいいますけど、周辺文化はわりとどうだっていいんです。私にとってなくなったら困るのは、音楽で言えばバッハの『音楽の捧げもの』とかギヨーム・ド・マショーの『ナルシスの鏡』とかですよ。でもそんなもの人気ないし、晒したところで誰にも関心を持たれないから、こういうところではポップミュージックの話をするっていうだけで。何か根本的に誤解されているような気がするんですよね(気のせい?)

漢字に自信なくて、ひらがな表記にしただけで他意はなかったんだけど...

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すっかり忘れていたけど、何かを考えるときもはや自力で一からやる必要なんかなくて、コンビニでおにぎりを選ぶような感覚で既存の価値観の中から気に入ったものをひょいとつまみあげるだけで、誰でもいっぱしのことが堂々と言える環境なのだった(消費社会ってそういうものだということをここ数ヶ月くらい失念してた)。

今のところある程度奥行きがあって、ポジティブにも解釈できそうな投稿に「いいね」を押すことしかできていない。すごく傷ついているようだけど、本当に何も言えない。

時事問題なりなんなりについて、我が身に引き寄せて思考を始めるなんらかの「始点」があって、それをいくつかの命題によって中継し、暫定的な結論として「終点」に至る、という経路それ自体が失われてしまったのだと思う。じゃあ何に頼っているのかと言ったら「生理的」な好き嫌いと、フォロワーの「いいね」を媒介にした脊椎反射だけ。内容いかんに関わらず、あまりに原始的すぎるんだよ。この時代にアウグスティヌスが生きていたとしたら、それはもう泣くしかないよね。

あと某氏の場合「私はリベラルである」という謎の(根拠不明な)言明から始まって、内的葛藤と逡巡を経て、「ゆえに私はリベラルである」と結論づけて終わるので(しかもそのパターンが毎回同じなので)、おそらくものを考えるのが苦手な人なんだろうな、と思いながら見ている。根本的に自分の立場に懐疑がなく、しかも結論ありきで、考えている風を装っているだけなので、クリティシズムとしてはまったく評価できません。これもオリジナルの不在というかオリジンそれ自体の問題。

あとこれ言おうかどうか相当迷ったけど、北守さんとモジモジさんの投稿を見て思ったこと。推奨されるべきかどうかはともかくとして、私もマルチイシューでやるのはぜんぜんかまわないと思うんだけど、シングルイシューで人集めといて、後からいやこの運動はマルチなんです、そっちをやるならこっちも協力お願いしますっていうのはどうなの?公平に見てアンフェアだし、詐偽みたいな手口じゃない?...私がそれをしないのは純粋に能力の問題で、マルチタスクはパフォーマンスが落ちるからなんだけど。

外山恒一に対して「呉智英で理論武装した鳥肌実」って揶揄表現というか批判を(Threadsで)見かけたんだけど、言っていることはよくわかる反面、彼のような人がいなかったら60年代なら70年代の学生運動と「左翼(主義)」の記憶が更に薄れてしまうでしょう。そのほうが恐ろしいよ。外山恒一の活動の意義は、過去とのミッシング・リンクになっているという一点に集約している。それはSEALDs系のリベラル全盛の時代にあって、(純粋にポピュラリティゆえに)千坂恭二や絓秀実にはできなかったことなんで。

昨日Xで「冷笑主義」がトレンドになっていて、それにまつわる投稿群を目の当たりにしたんだけど、結論から言うと、すごく下らなかった。SEALDsや彼らの活動を支持した知識人やライターの残したレガシーに現在の左派ポピュビリズムのルーツがあると思う。そして問題なのは、数少ない90年代生き残り組の佐々木敦の『ニッポンの思想』がそれらに対してディコンストラクトの役割を果たしていないってこと。議論の水準は著しく低くなったまま、立憲主義とロールズに依拠する自称リベラルだけが伸長した。

ひまそらあかねの『ネトゲ戦記』は近くの本屋にもあったんで、彼の人気(?)がインターネットローカルな盛り上がりとも一概に言いきれないものであることは、こちらの認識を改めるべき点なんだろうな、とは思った。フィジカルな本を売ることでも例外なく、基本的に左派がマーケットとして軽んじているところにある種の右派が食い込んできて占拠する、という構図は、近年あちらこちらで目にするので、ひまそらあかね自身にコンテンツとしてのキャパシティがそんなになくても、彼の象徴する現象はたぶんもうちょっと膨らむと思う。

考えてみると、意図的に(改まって)「自己形成」を試みる人なんて実存的にも社会的にもヤバイ人しかいるわけなくて、たいていの人は無邪気に自分の好きな漫画なりアニメなり(人によっては小説なり批評なり映像メディアなり)で、「自己」認識を勝手にカスタマイズしちゃうのが普通なんであって、その人なりに思考を始める最初の一歩に確たる根拠なんかなくても別に不思議じゃないんだよね。現代人としてある程度プラグマティズムの素養もあるから、霊感とか「ゴーストの囁き」とかも経験論的に全否定するわけじゃないし...

びっくりするほど中身のないことを言っている話者にそれでも多くの共感が集まってしまうのは、(中身がなくても)それなりに多くの人たちの「これを言ってほしかった」という需要を満たしたものだからだろう。だからこの場合、彼が実際に何を言ったかではなくて、話者の想定している読者層とそれを狙うマーケティングの巧拙を見るべきなんだろうな。もたれかかかるだけの共同幻想がまだあるなら、それと抜き差しならない関係にはあるわけだから、批評家の真似事をしている人を「頭が悪い」と切って捨てても、その背後にある膨大な需要について考えないことには何もクリティカルなことを言ったことにはならないという。

『憲法(上)〔新版〕』佐藤功(445-446頁より)② 

この場合、「能力に応じて」は各人の「智能の相違に応じて」の意味ではない。国民が智能の相違に応じて、それぞれの智能に適合する教育を受けるべきであるということは、特に憲法の規定をまつまでもないことである。また、この場合、特に教育基本法3条1項において、憲法14条に列挙しているものに加えて「経済的地位」を加えていることは、教育を受ける権利の生存権的な性質を重視し、国民が経済的事情のために現実に教育を受ける機会をもちえないことのないよう、国が積極的に措置を講ずる責務を有することを示したものである。

『憲法(上)〔新版〕』佐藤功(445-446頁より)① 

「能力に応じて、ひとしく」とは、教育を受ける権利における平等、すなわち憲法14条の定める平等原則の教育における適用を意味する。すなわち、人種・信条・性別・社会的身分・門地などによって教育を受ける権利が差別されてはならず、もっぱらその能力に応じて、教育を受ける機会を与えられるべきこと(教育の機会均等)を示す。教育基本法 3条 1 項は、このことを「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない」と定める。すなわちここに「その能力に応じて」とは、教育を受けることによってその人としての能力を向上せしめうる資質をもちながら、その資質とは関係のない他の事情によりそれが妨げられることがあってはならないことを意味する。

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