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このnote、長文だし分かりやすいわけではないけど、日本で宗教が語られるときに、私が感じる違和感について触れてると思う。
note.com/__juttoku__/n/n640a01

> 私にとって宗教は、世界の見方・切り取り方で、果てのない苦しみと理不尽の中で一つの解釈を人の心に下ろしてくれるものだと思ってる。
> 新興宗教も、「伝統的」な宗教も、いろいろあるけど、どれも人間がガチで現実と向き合って、苦しみから逃げられないんだって言う絶望と悟りの経験をして、そうして編み出された言葉の数々が広がっていって、そうして醸成された文化的な蓄積
> 宗教を編み出し、それを信仰する人間のギリギリの精神状態と、そこにある痛ましいほどの希求の可能性
> そして宗教のための苦しみも、宗教では解消できない苦しみも、今も昔も存在し続けている。

宗教は魔法ではないし、なんでも解決するものでもないし、宗教が理由の苦しみもあるけど、信仰をしてる人が現実の苦しみと向き合うときの何かだと思う。
祈っても助けになるわけじゃないから不思議だよね。

でもそういう、祈ることも含めて、外から揶揄したり否定してしまうのは残酷だと思う。
例えばガザで極限状態で神に祈ってる人がいたとして、『祈りを止めろ』と言ったり、その行為をバカにしたりすることは、ものすごい精神的な苦痛と絶望を与えるというのは想像できると思う。
だから日常生活でも『宗教を信仰する人は奇跡が起こると信じてるわけだよね』と外部が軽く言うことは、現実の悲惨さを見ると希望も信じられないけどただ今は祈るしかないという人にとっては、残酷な言葉になりうる。

信仰を持つ人も、人によって、その向き合い方は違うし、濃淡があるから、~はこうだということは言えないと思う。
本人にも周りに対しても害悪を与えるような形で信仰してる人もいるだろう。

人権の問題を考えて、宗教の人権侵害の側面を批判するのはできる人でも、宗教自体を軽く扱う人がいるけど、宗教自体を軽く扱うこともまた、人の柔らかい部分を踏みつける可能性があるとはどうして考えられないんだろう。

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