祖母たちの移住には長兄は同行しなかった。「イエ」のために。でも結局「支那事変」後に徴兵され「戦死」したそうだ。この時期その地域の20代そこそこの「健康な」男たちの多くが徴兵されたらしい。祖父はその時ちょうどけがをしていて徴兵を免れたが、戦況が長引いてニューギニアの戦闘が始まってから34歳で徴兵され、敗戦を迎えても帰って来ず、「戦死」が伝えられたのは敗戦翌年。おばは学校帰りに寄った雑貨屋のお使いの人からそれを伝えられ、家まで泣き叫びながら帰って、帰宅したら家でみんなが泣いていたと。
そして、「イエ」のためのおばの人生は、さらに過酷なものになっていった。
数年前、子どもや孫はそれぞれ自分の人生を送るようになって、おじが亡くなり、今が一番自由で幸せだと言う。手術した膝が痛いと言いながら、集落の仲間とグランドゴルフをするために移動はまだ軽トラを運転している。資料をいくつか借りてきて、今度はそれを返しに行く時に、また話を聞かせてもらうことになっている。