職場繁忙期越えて8月末にようやく夏休みとなり高齢両親の暮らす実家に帰省。猛烈な暑さと、過疎地の実態のもろもろと、90歳のおばからはじめて聞いた「イエ」にまつわる家族親族の人生の一部に触れて、その疲れが今どっと出てきている。
初めは西部ニューギニアで「戦死」した祖父のことを聞くため訪ねたのだが、それより人生を「イエ」に翻弄され続けたおばの人生の過酷さを初めて知り本当に「女」の話は聞かれてこなかったし私も聞いてこなかったと衝撃を受けている。
そして未だに受け止め所が分からず宙ぶらりんになっている祖母にまつわる事実。祖母は幼少期、両親と姉妹で朝鮮半島に移住していたのだった(大正から昭和初期にかけてと思われる)。祖母の生地の集落は瓦の一大産地で、祖母の父は朝鮮半島で瓦の窯を興そうとしたが失敗して数年後帰国したと。当時祖母は日本語を忘れてしまい帰国後かなり苦労したらしいと。そういう話をおばから聞いた。はじめて。
私が幼少期、祖母の作る料理の中に、結婚して大阪に移住した末のおばが送ってくる干し鱈を、むしって唐辛子とごま油と醤油とみりんで和えた「めんて」というおかずがあった。今思えばあれは地元の郷土料理ではない。祖母の幼少期の記憶から作った料理だったんだろう。
祖母はもういない。何も私は聞いてこなかった。
祖母たちの移住には長兄は同行しなかった。「イエ」のために。でも結局「支那事変」後に徴兵され「戦死」したそうだ。この時期その地域の20代そこそこの「健康な」男たちの多くが徴兵されたらしい。祖父はその時ちょうどけがをしていて徴兵を免れたが、戦況が長引いてニューギニアの戦闘が始まってから34歳で徴兵され、敗戦を迎えても帰って来ず、「戦死」が伝えられたのは敗戦翌年。おばは学校帰りに寄った雑貨屋のお使いの人からそれを伝えられ、家まで泣き叫びながら帰って、帰宅したら家でみんなが泣いていたと。
そして、「イエ」のためのおばの人生は、さらに過酷なものになっていった。
数年前、子どもや孫はそれぞれ自分の人生を送るようになって、おじが亡くなり、今が一番自由で幸せだと言う。手術した膝が痛いと言いながら、集落の仲間とグランドゴルフをするために移動はまだ軽トラを運転している。資料をいくつか借りてきて、今度はそれを返しに行く時に、また話を聞かせてもらうことになっている。