関連して、「ある面ではマイノリティだけれど他の面ではマジョリティ」といった表現がわたしは好きではない。例えば男性という点では(ジェンダー的に)マジョリティだが、ゲイであるという面では(セクシュアリティ的に)マイノリティである、みたいな。もちろん同性愛者の男/女が同じような状況にあるわけではないから、セクシュアリティをめぐる差別について考えるときに、ジェンダーの差異を考えることは非常に(非常に!)重要なのだけれど、個人が色んなラベルを身に着けていて、そのうちのいくつかは「+(特権)」で、いくつかは「-(剥奪)」で、といった理解は、ある軸における社会的な抑圧や周縁化が、同時につねに他の軸と交差しつつ現象することになるという、交差性の視点を失わせる危険があるうえ、さきほど同じように、あるラベル(軸)において特権を持っている個人が、そのラベル(軸)においてマイノリティである個人に対して優位にある/加害者である/抑圧的であるといった、非常に個人化・属人化された差別の理解をもたらすように機能してしまうように思う。だから、こうしたラベル的な理解や「ある面では、他の面では」式の説明は好きでない。
RTs。この種の質問や相談はわたしも受ける。わたしの場合は、シスジェンダーである以上は、自分も抑圧する側なので…という角度で話しをされることが多い。そのときには必ず(清水さんと同じだけど)差別は構造的な問題であることと、マイノリティとマジョリティがそれぞれ集団として差異化されるメカニズムの問題性を一緒に考えて欲しいと応えるようにしている。シスジェンダーである個人がトランスジェンダーである個人に対して抑圧的だったり差別的だったりすることはもちろんあるけれど、シスの人たちがトランスへの差別について考えるときに「加害者」や「抑圧者」としての自分、から出発することには、分析としての意味も、反差別の実践としての意義もないとわたしは思っている。とはいえ、前も書いたことだけれど、社会に埋め込まれた差別的な仕組みや、排除を伴う差異化のメカニズムを、マイノリティとして生きている人は「身体で知っている」ことがあるから、そうした意味では当事者(あまりこの言葉は好きではない)の言葉や感覚には、知的に優れた点がしばしばあるというのも事実ではあり、依然として当事者の声を聞くことは重要性を持ち続けるだろう。
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ある人が何らかの点でマジョリティ属性であること自体を批判したり糾弾したりするのはフェミニズムの政治が目指すものでもクィアの政治が目指すものでもないと私は思うのだけれども、とりわけSNSなどで小さく切り取られた鋭利なメッセージだけが一人歩きしがちな状況が続いてきた中で、特に若くてまだ感受性も鋭い人たちを中心に、そういう風な「マジョリティ属性それ自体に罪悪感を覚える」形でメッセージが伝わってしまっている側面は確実にある気がしている。
私はずっとTwitterを使ってきたので意図的ではなかったにせよ結果としてそのようなメッセージ伝達の一端を担った責任はあると思っているし、さらに言えばそれに意識的になったのもこの数年だし、気がついても介入の仕方がわからなかったし、というのもある。
ただ、「マイノリティ認定をしたらその途端にマイノリティ側が道徳的・倫理的に絶対優位に立つ」と思い込んでいるかのような発言を、差別側、被差別側、権利擁護側のいずれにおいても目にすることは多くなっているし、なんかちょっと一度そのあたりを整理して共有していく方法はないんだろうか、とは思う。