子供の頃空中でもう1回ジャンプしたり、空中で羽ばたいて落下を遅らせたりみたいなことが現実にはできないと理解したときの衝撃は凄かった。
作中主体から日の出がどう見えるのか、と考えるとき、先程の統語的な揺動が利いてきて、日の出の雄大さ/崇高さなどに圧倒されたか(私はそういう第一印象は持たなかったが)、日の出が(思ったより?)小さく見えたか、それとも日の出の大きさにはあまり力点がないか、など考えられ、どれも成り立つ。
最小では、駅も自分も日の出も小さかったという静寂ともいえるイメージになるし、他方、最大では、とても小さな駅(や自分)と雄大な日の出とのコントラストが鋭くあるようなきわめて強いイメージにもなる。そうした諸々の可能なイメージが全体として構成するダイナミクス──強弱の幅が広い。
そうしたダイナミクスの太い束のようにして差し出された句である。素晴らしいと思います。終わり。
初句、二句、三句がゆるく連接している。
素直には「とても小さい駅」という修飾関係として解釈するだろうが、「とても小さい駅」というフレーズ自体がよい。こんな語の並び、考えたことあるだろうか。基本語の組み合わせなのに聞き慣れず、新鮮である。
他方、連接していることで、初日の出が小さい、という主述関係のようなムードも──その解釈上の妥当性は低そうという印象も伴いつつ──重なる。さらに、「とても小さい」が独立して、浮遊するようにして全体の雰囲気を作っているようでもある。後二者の見方は、文意の理解としての解釈の次元にはなくて、ただ語が並置されることで生じている。
これらの、さしあたり3つの見方の重ね合わせみたいになっていて、固定されない感じがよい。
叙景的な側面を見ると、どういう駅か、どういう日の出か、なぜ早朝に駅にいるのか、などいろいろ想像できる。どういう日の出かは、作中主体の感性と切り離せない。ここで「とても小さい駅で見た」が生きてくるのだろう。作者が8歳の子供だという外部情報がなくても、作中主体の語彙世界が基本語でできていることまでは伺える。
これの鑑賞をしておりました。
https://news.livedoor.com/article/detail/25218346/
二次創作小説とTRPG | 1992 | he/him | サークル・金星のこととか