「だから彼らは、僕の采配を信頼していなかった。ひしひしと感じるんですよ。そこで打たすんかい、バントかい、走らすんかい、みたいな冷たーい視線を。それが嫌だから、基本的にサインを出す前にベンチの選手に聞くんです。『ここどうする?』『バントにする? それとも打つ?』って」
簡単に言ってるけど高校生のチームスポーツで采配について選手が監督に自分の意見を言う、しかも試合中にって簡単じゃないよ。本当の深い意味で心理的安全性が担保されてないと無理。采配を信じてもらうことより人として信頼されることの方が100倍難しいだろ。
「お前、125キロの直球でどう戦うんだよ…」じつは大社高・石飛監督も半信半疑だった「先発、馬庭じゃないよ!」甲子園がざわついた決断…監督が語るウラ側 - 高校野球 - Number Web - ナンバー https://number.bunshun.jp/articles/-/862824?page=1
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はできるけど、
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はできないんだわ。
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はできる。
あと、ThreadsからFediverseアカウントのフォローは、まだできない。
対応が小刻みです……
#fedibird
#映画感想
【ポライト・ソサエティ】
今観るべき馬鹿映画。
タイトルは「御上品な階級」程度の意味。
スタントマンになるのが夢のパキスタン系イギリス人の思い込みのはげしいにも程が有る1人の少女。
ところが一緒に夢を追ってる筈だった画家志望の姉が夢を捨てて金持ち高学歴イケメン男と結婚する事に……。
そこから姉の結婚を阻止して、姉を正気に戻す為の(ところで正気って何だ?)主人公の世にも馬鹿馬鹿しい暴走が始まるが……何と、本当に、この結婚には、とんでもない裏が有り……?
「頭を空っぽにして楽しめる純粋な娯楽作品」を作るためには制作者がどんだけ頭を使って丁寧に政治性・思想性を排除する必要があるか、という話なんだけども。
頭空っぽのやつが頭空っぽの作品をそのまま垂れ流したらおよそ読むに堪えないゴミしかできないんだよ…
業界内ではずっと言われてきたけど誰も耳をかさなかったことがやっと出た。かわんご界隈とかマスコミ・出版・業界とかまさにコレでしょ。
「業界内でもよく知られた個人投資家の方に『投資するから、月100万払うから愛人関係になろうよ』と言われました。準備していた事業計画書もろくに見てもらえず、そういったことをしなければ投資をしてもらえないのか、とすごくショックでした」
“女性起業家の半数がセクハラ被害” スタートアップ業界で何が
https://www.nhk.or.jp/minplus/0026/topic132.html
台風のニックネーム聞いてなんだったっけ?と気になってた。これだ。
SUN SUN by Casiopea on Apple Music
https://music.apple.com/jp/album/sun-sun/1535035066?l=en-US
タンザニアもエグいことしているな…。
抗議署名は以下のリンクから。
「タンザニアでは、マサイ族10万人が選挙人名簿から抹消されました。先祖伝来の土地からの移住要請に応じなかったためです。サファリ観光用の土地を確保するため、同国政府は銃器や催涙弾を用いて大勢の先住民マサイ族をンゴロンゴロ自然保護区から追い出してきました。そして今度は、保護区に残り続ける少数のマサイの人々の選挙権を奪うという強硬手段に出たのです。
民主派の援助国から非難されないよう、タンザニア政府は秘密裏にこれを進めています。」
星野寄稿へのコメントプラス、今朝見ると執筆者がさらに増えていてまたびっくり。「カルト」規定に疑いがなかったり、「率直に意見を述べて議論をできない社会、それはたしかに民主主義の危機である」と〈民主主義は工場の門前で立ちすくむ〉状況どこ行った?的なものなどを見た。
「傲岸、卑屈、執念――これが階級社会を反映した組織の枠内に必ず起る精神の三位一体である」(埴谷雄高「政治のなかの死」1958年)と、スターリン批判のころからえぐり出されてきた半世紀以上の歴史があるわけで、それを「カルト」性と特徴づけるのはあまりにも平板であるのみならず、〈政治〉にまとわりつくその傾向の普遍性を突き出すよりも、単に外部化と排除しかもたらさない。それこそがまた、絶えず「敵」とのあいだに線を引き続ける、〈政治〉の再生産ではないのか。
体幹弱そうな人の歩き方って左右に揺れたり左右どちらかに軸が傾いてたりして進行方向の予測がつきにくいですよね。どちらに向かおうとしているのかが予測できない。
「ここにある一切は、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。」―「彼自身によるロラン・バルト」扉表紙