正義じゃないものを正義の暴走と呼ぶことで、正義を貶めて、意味を変えて使えない言葉にしていってるってことを言いたくて…
民主主義が独裁になったら民主主義とは呼べない単なる独裁なのに、「悪い民主主義」っていうようなものでしょう…それは「独裁」
もう意味が変わってる
正義の暴走は、暴走した正義じゃなくてそのものの名前で呼ぶべき
例えば、(正義のつもりの)加害欲、断罪欲、なんでもいいけど
違うイメージをつけることで、言葉を奪われていってるんですよ
言葉は単に言葉じゃなくて、行動を定義したり、共有するために使うでしょう
言葉が歪められ汚されていくと、本来その言葉で表されてた行動に偏見がついて、行動もしにくくなるでしょう
安倍政権以降にどれだけの言葉の意味を変えられ、使えなくされてきたか
そこに危機感を抱いてる
昭和平成期によくいた自称リベラルオジさんのある種の暴力性の話と、正義云々の話は分けて語るべきなんじゃないかとは思う。
その上でリベラルだろうと左派だろうと右派だろうと、中高年男性は、自身の暴力性について自覚的である必要はあると思う。
(ここについては自戒を込めますが)
星野智幸っていう人の文章、TLであまりに話題になっているので、何回か読もうとしてるんだけど、気づくと別のことしてたりしてて、どうにも読む気になれない。
我慢してまた読みに行くを繰り返している。
全体に醸されてるナルシシズムが鼻について不快。
バブルの頃に養ってきた意味のないものをまるで意味があるかのように見せる技術じゃない?っていう感想しかわかなかった。
鈴木一人さんのコメントは、わりかし共感できるなと思う。
あと他のコメントでも、どちらかというと「正義」的なものを信じて発信しても社会の変わらないところに対する無力感みたいなものを言葉にしているものについては、そう言う気持ちが理解できるなと思う。
言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸:朝日新聞デジタル
単なる悪口
話題のあいつ、あだ名は「やれやれハゲ」でいいよな。
「ここにある一切は、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである。」―「彼自身によるロラン・バルト」扉表紙