フィクションでは、当然ながら現実で起こり得ないことも表現できる。例えばタイムトラベルなど、現実の物理現象を無視した事象も書ける。フィクションで描かれたタイムトラベル現象を事例として、現実の物理法則を研究する人はおそらくいないだろう。しかし、『会話を哲学する』ではフィクションとして描かれた会話という、実際に起こりうるかが分からないコミュニケーションを事例として論理を展開する。これは果たして妥当な思考法なのだろうか?
もしかしたら、『会話で哲学する』でフィクションの会話を例示しているのは新書ゆえの便宜上の手法であって、本来の研究論文では厳密に会話の実現可能性を考慮に入れて論じているのかもしれない。それならば、フィクションを読むだけで言語哲学ができるんだという誤解に読者が陥らないように、何らかの注意書きが必要ではないだろうか?
会話とは約束を形成することであるという、著者の主張や後半のコミュニケーションの暴力について触れた箇所についてはとても納得しているだけに、エビデンスの妥当性が気に掛かってしまってもやもやしている。