移民を否定することは、人類が大昔から移動を繰り返してきたことを否定するし、「純粋な〇〇人」なんていう作られたフィクションにしがみついて、差別で金稼ごうとする政治家達は恥を知れって感じ。
国内外問わず。
パレスチナに連帯するデモに参加する人たちは、ハマスを支持しているわけでもないのに。
ちなみに、この本もいいです。
基本給が月110万
「Dappi」裁判、被告企業が敗訴 「投稿は社長の指示」 立民議員への名誉毀損認める:東京新聞 TOKYO Web https://www.tokyo-np.co.jp/article/284005
(Hiroshi Makitaさんのツイート↓)
自己負担化に伴い、抗ウイルス薬の薬価を下げると思っていたが、薬価は下げなかった。
これは最早殺人行政と言って良い。
https://x.com/bb45_colorado/status/1713681229890167154?s=46&t=7ijHXvOVYdXMvERcNmfP7w
(続き)
昨年11月時点での合衆国政府のパクスロビド調達価格が500ドル程度だったので、現時点でパクスロビドの卸薬価9万3千円と言うのは高すぎます。
Dappi裁判、でも2人でたったの220万円の賠償で、結局、最後まで誰がやったのかも隠し通せたんだとしたら、やったもん勝ちだよなー。😡
どっから金が出てたんだか知らないけど、痛くも痒くもないんじゃないのか。
ハマスの残虐性を象徴するとして、バイデンやCNNさえ「事実」として言及した斬首の映像が、実際には当局の確認の取れていない怪しげなものだったとワシントン・ポストが曝露している。
アメリカはフェイクニュースを根拠にジェノサイドを行おうとしているのか! https://t.co/hoLarCUpJU
なんでこの記事を出しているかというと、反ユダヤ主義は日本語圏でも健在というのを思い出したから。この連載記事が流れてきたのには、ギョッとした。
https://archive.is/daWZ0
ユダヤ陰謀論の導入としてこういうタイプの整理をされることがあるから、注意してほしいです。。時代を重ねるごとに累積的に移民ディアスポラのコミュニティがたとえばニューヨークといった地域にできていくということについては分厚い研究の蓄積がある。そういうものが最初に参照されないことには苛立ちしかないし、国や産業界のカテゴリがはるかに重要で分析上有効な切り口になるはずの出来事まで、ユダヤ系の人びとがかかわったことを共通項にして説明することの危険が全く理解されていないと思った。
私個人の意見としては、ハマスは過激派だと思ってるけど、居住地と生活の糧を奪ってガザに押し込めて、高い塀を巡らせて出入りを自由にできない所まで追い詰めておいて、穏健な政党を選べと言われても無理だったよね、というもの。
アメリカ人のブレマーが基本的に同じ事を言っていて、周辺知識がちゃんとある人はそういう見方が出来るんだと安心した。
でも、インディアンの土地と生活の糧を奪って不毛な居留地に閉じ込めて、カジノの収入で暮らしてくれたまえ、って言ってるアメリカ人の大半は、イスラエルが何してきたかほとんど知らないもんな。
しかし、世界の反対側の出来事とはいえ、なんの罪もない老人や子どもが「テロリストへの報復」名下に虐殺されようとしてるという事実が、なにするにしても心のどっかに引っかかりますわな。
「創作物を楽しむのに政治や世界情勢の話なんか関係ない!面倒なことには触れたくない!」とか言ってる人も佃煮にするくらいいるけど、そんな態度で生きてていざ政治や世界情勢が牙をむいて日常を奪い去ったら、その「創作物を楽しむ」余裕すらなくなってしまうんですよ…
あくまで自分のメモであり、思いつきです。
パレスチナの人たちのことが頭から離れない。私には障害のある子がいるので同じような境遇の方はどうされているのだろうかと考えると気が気ではない。この点ではパレスチナだけではなく世界で暴力や災害にさらされている人はいるのだけれど。
若かりし頃、社会問題について話した時に友人が「知らない方が幸せだった」というような意味のことを言っていた。起きている現実ではなく自分の心の怪不快に注目するとそうだ。
いま家を抜け出して外を歩きながらこの文章を入力しているが、道すがら秋の気配や草木の変化が感じられて「ホラ、ニンゲンハイロンナコトニココロヲナヤマシテイルケド、シゼンハチョウゼントシテルNe!」という言説が思い浮かんだ。社会問題を見る不安さや不快さから目を逸らすような物言いは人気が出るだろうな。だから糸井重里のような人はずっと支持されているのかなと思った。ソフトな目の逸らし方はそれで、攻撃的な目の逸らしかたになると、「攻撃された方が悪なのだから当然だ!攻撃やめろと声をあげている連中を攻撃しろ」ということになるのだろうか。
続きます。続きが本題。
続き。
私自身も、心の不安や憂鬱から抜け出したくて目の前の小さな幸せに心を逸らしたりするのだけれど、いや、それ自体は当たり前に必要なことなんだけど、その心の不安や憂鬱をなんとかする方向性の一つに「1日一回、平和のために何かをする」に向けるというのはどうかなと思った。長々と前置きをしたけどこれが一番言いたかったこと。
基本は「自分自身の不安や憂鬱感をなんとかしたい」ことから思いついたことだし「1日一つ何かしたくらいで何かした気になる」みたいなこともあるから決して褒められた話でもなく、ただ目を逸らし続けて「なかったことにする」とか、攻撃されている方を当然と見做したりすることよりはという、「よりまし」を求める発想なのだけれど。
体術家