[ははののいさん: 「ゆうちょ銀行から 総合口座 (名義人)イノミサオ (記号/番号)12160/56328041 他行から (銀行名)ゆうちょ銀行 (コード)9900 (店番)218 (預金種目)普通 (店名)二一八(ニイチハチ) (口座番号)5632804 個人名の口座ですが募金の口座です。小さな額を沢山の方で、と望んでいます。」 / X](https://x.com/kikugumi8/status/1825578551770493399)
[ははののいさん: 「【緊急:拡散希望】 仮放免者Bさんのご一家に生活費の支援をお願いします。 受験生を含むお子さんが二人おり、パートナーが働いて家計を支えています。ですが時給労働のため年末年始・GW連休・お盆休みの明けた翌月の収入が低く、家賃・光熱費の支払いがおいつきません。加えて今年前半、前の契約を」 / X](https://x.com/kikugumi8/status/1825578531860189589)
영국 정부가 여성혐오를 테러 위험이 있는 극단주의 문제로 보고 대응을 검토 중. https://www.bbc.com/news/articles/c15gn0lq7p5o
これからポツポツnoteを更新していこうと思っています。
KPの楽曲が公開されたので、私の個人的な願望を含めて少し書きました。
今KP(Korean Power, Korean Pride)の曲を聴く意味|Jaewon Kim @zaigen222 #note https://note.com/zaigen/n/n28ddb5f904b2
都庁の問い合わせ窓口から
小池百合子は追悼文を送れと送りました。
https://logoform.jp/form/tmgform/344142
しろ。
小池都知事、朝鮮人虐殺追悼会「出席いたしません」 要請に回答 - 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20240819/k00/00m/040/250000c
中上論としては、亀有碧「中上健次の〈アジア〉思想」(2023)が久保の議論を引き継ぐものと言えそうだった。
(pdf注意) https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/2007580/files/lis2108.pdf
読ませる記事だった。
久保覚「中上健次は軽蔑に値する」(1982)
三木那由他せんせいからプレゼントされた記事のシェア。
全人類に読んでほしい。
ここまで個人に負わせること、それでも「表現」を使って抗い、歴史に刻みつけること。今日読めてよかった。
https://digital.asahi.com/articles/ASS8F3FG1S8FUTIL005M.html?ptoken=01J5C8B3078YW36FE5FBGFMS1Z
しかし、文化的に植民地化された状態とは、まさにそのような言説の内部でしか思考・表現できないことを言うのではないだろうか。つまり、自らが生きている社会的現実に正しく向き合うことができず、世界の中心と目される先進国というモデルとの同一性と差異という問題だけに関心を集中しつづけ、「自分たちの文化がモデルにどれだけ近づきえているか」と「自分たちの文化がモデルからどれだけ離れた独自のものたりえているか」という両極のあいだを振り子のように往復することしかできないことが、文化的に植民地化された状態なのである。別の言い方をすれば、文化的に植民地化された状態においては、めざすべきモデルの受容を強制され、同時にそのモデルに到達することを妨げられ、モデルとの差異を自分たちの側の遅滞・劣等性として理解するようになっているのである。
>異種混淆性の議論そのものは、けっして近年になって、グローバリゼーションの下で氾濫する商品化されたシンクレティズムや、ポストモダニズムに影響された文化理論とともに現れてきたものではない。「メスティサヘ」や「混血の文化」というメタファーにくり返し訴えてきたラテンアメリカのナショナリズムにとっては、使い古されたと言うことさえできる議論なのである。(略)ショーハットとスタム(Shohat and Stam 1994)が正しく指摘しているように、「異種混淆性は、権力関係を含んだ非対称的なもの」であり、「異種混淆性それ自体を賛美することは、もしそれが歴史的なヘゲモニーの問題と節合されないのであれば、植民地暴力の既成事実を聖化してしまう危険がある」。ブラジル(そしてラテンアメリカ)では、まさにそのようなかたちで、異種混淆性の美学が、あらゆるものを非政治化する作用をはたしてきたのである。
ブラジルの人類学者ラモス(Ramos 1990)は、欧米では人類学が帝国建設(Empire-building)に貢献してきたのに対して、ブラジルの人類学は国民建設(nation-building)をめざしてきたという、同僚の人類学者の言葉を紹介している。この違いは、前者が、自己と他者の隔絶した文化的異質性を前提として、その間に架橋する(支配であれ指導であれ)社会関係を樹立しようとする企てであるのに対して、後者は、すでに社会関係が存在してしまっている他者をも包含する「われわれ」という文化的な同質性を構築しようとする企てだと言い換えることもできるだろう。
これ日本の場合は両方あるな
ラテンアメリカ諸国の独立の担い手は、植民地宗主国の文化的継承者を辞任する植民地人たちである。それゆえに、例えば20世紀中庸のアフリカ諸国の独立の場合のように、独立後のナショナリズムの言説のなかで「植民地化以前の文化伝統の回復」というレトリックを用いることが原理的に不可能であった。それにもかかわらず、「インディオ性(Indianness)」を流用し、土着の先住民の政党な後継者として自らを規定する例は枚挙にいとまがない(Urban and Sherzer, eds. 1991)。ブラジルもその例にもれない。そのナショナリズムの言説は、ヨーロッパの植民地主義から独立を達成した主体としてのブラジル民族=国民という「われわれ」を事後的に構築し、その「われわれ」に土着の正当性を付与するために、先住民インディオという表象を流用し、同時にインディオが自らを表象する道を封じる。(略)インディオとは、他の民族と区別して「われわれブラジル人が何であるか」を定義するために、「われわれ」が利用できる専用の資源であり、「われわれ」が都合よいしかたで自由に定義する特権をもつ他者なのである。
尊敬する人はローズウォーターさんです。在日コリアン。