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リアリティは逃避の中でではなく、生きることの中でだけ理解されうるのです。人生の目的を追い求めるとき、あなたは実際は逃避しているのであって、あるがままの生を理解しているのではないのです。【人生をどう生きますか?セクション1第7章第5節・自我の終焉より】

私たちが自分自身の意識の性質を理解し、この果てしない知識、行動、区別等々のサイクルの中でどう作用しているかを見、そしてその意識が何千年もの間維持されてきた事を見、それが一種の偏見に他ならないという真理を見てそれと手を切るなら、私たちは古いものに新しい要素を与える事になるのです

あなたが知っているのはすでに終わったもの、完了したものである。あなたが知っているのは昨日だけであって、我々が問題にしているのは、あなたが知らないものからはじめて、そこから生きたらどうか、ということである。

知恵は恐怖や抑圧を通してはやってきません。それは人間関係の中の日々の出来事の観察と理解を通してやってくるのです。

私たちは私たちの中の空虚を知識で、儀式で、噂話で、会合で…無数のやり方の逃避で充たそうとする。

思考のおしゃべりがやんだとき、そこに理解の閃光がある。

私たちが自分自身の意識の性質を理解し、この果てしない知識、行動、区別等々のサイクルの中でどう作用しているかを見、そしてその意識が何千年もの間維持されてきた事を見、それが一種の偏見に他ならないという真理を見てそれと手を切るなら、私たちは古いものに新しい要素を与える事になるのです

目覚めた精神、内から燃え上がる精神にとっては、どんな種類の働きかけも不必要である。

技術的には、彼は月に行くこともできます。しかしそれは人間の問題を解決しません。また、たんに余暇を宗教や他の娯楽に使うだけでは、それを解決することはできません。教会や寺院に行くこと、信念やドグマ、聖なる書物を読むこと――これらは皆、実際は娯楽の一種にすぎません。【人生をどう生きますか?セクション1第5章第1節】

安定―あらゆる種類の安定―に基づいた道徳に依拠している人々は道徳的ではありません。なぜなら、安定願望は恐怖の結果だからです。私たちが道徳と呼んでいるものは恐怖と強制であって、実は少しも道徳的ではないのです。

あなたが自分自身について学び、自分自身を見つめ、自分自身がどんなふうに歩き、どんなふうに食べ、どんなふうに語るかを見つめ、ゴシップや憎しみや嫉妬を見守る時に、そうした事をすべて自分自身の内部で自覚すれば、それは瞑想の一部となるのである。

世界はあなた自身の延長であり、世界は複製され、増幅されたあなた自身なのです。【人生をどう生きますか?セクション2第5章第2節】

宗教的な生き方についてあれこれ思いめぐらすことでなく、快楽や不幸、あるいは人間を取り囲んでいるあらゆる条件を曇りなく見ることが、何よりも大切なのである。

安定志向こそは実際には無秩序の原因なのである。自分のなかで増大しつつある無秩序や混乱を目のあたりにして、あなたはそれをすっかり終わらせようと考えるようになる。

瞑想とは、何かをその一部だけでなく全体を完全な注意を払って見つめる心の状態である。

なぜ私たちの人生はこうも空虚なのでしょう?私たちはなぜこんなにも寂しく、欲求不満なのでしょう?それは私たちが自分自身を深く見つめたことが一度もなく、自分を理解したことがないからです。【人生をどう生きますか?セクション1第7章第5節】

特別な意見に捉えられた心、あるいは観念、信念、教条の網に掴まえられた心…そのような心には確かに再生はあり得ません。それは生を新たに見ることができません。それらのものが脇にやられ、心が自由であるときだけ、心は生を新たに見ることができるのです。

自分を実現したいという欲望があるときにだけ、死への恐怖があるのです。なぜなら、自分を実現するには時間が、長寿が、継続がなければならないからです。しかし、もし瞬間ごとに自分を実現することができるなら、あなたは死を恐れないのです。

欲望は、思考がイメージを作り上げるときに起こるのです。それが欲望の源なのです。それ以前に欲望はないのです。

私たちの行為は観念によって形作られています。そして私たちの全見解は観念によって条件付けられています。したがって、観念が私たちの関係を形作るのです。その観念によって関係を形作ることは、関係の理解を妨げます。

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