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なんらかの社会的枠組みが与えられなければ(例:認定、表彰、評判、実績)、個人の語りが代表性〜代理性を持つとは見なされない。

だから当事者性を満たせなさそうな物語をつくり出したいとき、たいていの語り手は本人性〜私性に寄ったナラティブを選ぶほかない(たぶん)。その選択に強いられがあるかは大事だけど、別の話。

本人性を支える叙述というのは詐称や誇張に対して脆弱で、おまけにほとんどすべてのひとは無名〜匿名で語らざるを得ない。稀少でなければ有名人ではないから。

そうなると、自己紹介(や、それに代わる何らかの属性推定メカニズム。例えば「同じ村に住んでいる」「同じ言葉を話す」)が機能しづらい場では、おそらく、私性に頼ったナラティブを選ばないと、そのひとの語りは単独で通用しない。

結果としてインターネットには「お気持ち発言」が……とまでいうと飛躍しすぎか。まぁそんなような気持ちになりました。

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何かにつけて騒ぎになるところの、(任意の主体)は(特定の主題)を語ってよい/語るべきでないとする「お前が◯◯を語るな」問題について考えるとき、代表性>代理性>当事者性>本人性>私性といったグラデーションで考えるとどうなるか。

代表性〜代理性は、公序良俗に照らして否定されることがある。語る資格はしばしば有形/無形の認証に基づく(例:不動産の重要事項説明)。

当事者性は、該当する主体や主題についての広範な合意が成り立たないから、よく揉める。代理性と本人性との線引きは流動的だから、よく揉める。

本人性〜私性は、表現の自由(ひいては内心の自由)として誰もが否定されない。基本的人権であって許認可の問題にすべきでない。

なるべく自虐的にいうと、専門知識のある芸術分野で購買行動するときのじぶんは、「ちがいの分かる私」を維持するためにお金を払っているところは少なからずあるよね。だって駅前のコンビニおにぎりでお腹いっぱいにはなるんだもの、わざわざ高級すし店を探し歩かなくても。

さらにいうと、この消費行為は筋トレや語学に類するもので、外形的にはルッキズム(面喰い)として現れる、マッチョイズム(強くなりたさ)に見せかけた、ぼんやりとしたアンチエイジズム(老いたくなさ)に駆り立てられているのだろう。

お笑いがその典型だけど、その芸術に接したときにお客さんが得られるのは物品ではなく「たのしい時間」や「明るい気持ち」で、時には「知らなかったこと」も手に入る。類型的にはサービス業の報酬体系だといえる。「作ることの対価」も同じ仕組みで支払われる。だとすると、つき詰めると、「たのしい時間」が過ごせさえすれば、じつは「作者」も「作品」もいらなくて、あるいは「読者」すら不要なのかもしれない?

世代でもない古い喩えですが、「たとえば 君がいるだけで 心が強くなれる」としたら、「君」は作中話者にどんな価値(あるいは意味)をもたらしているのか

「なんだかすごいものを作ったひとの中から抽選で1名様に何十万円をプレゼント!」だとハイリスク労働っぽいけど、「私が感動したこれを作ったのはあなたですね。贈りものをさせてください」だと贈与っぽい気もする

役務提供の対価ではない賞金(お褒め)は、対象作に対して主たる受益者が社会権(とりわけ文化権)の行使を可能としたことに対する報酬と考えてしまっていいんだろうか。

調達の快楽、開発の快楽、廃棄の快楽…etc.などと「くくり」を細かくしていくと、法人/個人の経済活動は、生命一般のそれとよく似てくるし、芸術活動の「くくり」とも見分けがつかなくなる。

いまや語弊しかないけど、経済的欲望(働きたい)と文化的欲望(休みたい)が対比しづらくなる、と言い換えてもいい。

ここまでは(いまはなき雑誌へ)寄稿したときに考えた。さらに話を先へ進めるなら、「くくり」ごとの機能や「しくみ」全体の働きに目を向ける必要があって、これは医療政策における健康診断プログラムと同じ発想かな。「頭がわるい」のか「胃腸が弱い」のか「足が衰えている」のかを知るということ。

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資本主義的な享楽(?)について考えるときには、産業連関表みたいな枠組みがかえって有効なのかな。生産の快楽(つくってあそぼ)、流通の快楽(君に届け)、消費の快楽(これは便利!)

ひと言でいえば「『家』から『部屋』へ」とでもフレージングできるところで、社交の輪からはじき出されて「部屋」を持てないひとたちはどう生きるかについて、家族概念の検討と評価にかかるとんでもない労力を避けるところから始められないか、ということかもしれない。まださほど考えはまとまっていないけれど

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『トランスジェンダー入門』がその後半で(かなり強い語調で)戸籍制度や「家族」概念の弊害を述べる姿勢にはしっかり共感しつつ、では具体的にどう統治コストと心理的不安を下げるかと考えると、ごく抽象的な水準では「親子」概念や複数主体のグループ化、なんらかの代理-表象システムといった論理構造を否定しきるのはかなり難しいだろうとも思う。

血縁関係や地縁的衆合を(続けたいひとは)否定せず、その呼称をゆるやかに変えていく名目的な操作がむしろ意外と効きそう、とでもいうか。学校教育では「親御さん」と呼ばずに「保護者」と言う、みたいな程度の話に落ちがちで、制度論から遠のきそうなのは気がかりだけど。

要介護世代をその子世代が多世帯住宅で扶養する風景が当たり前になっていて、認知や言語能力の衰えが一線を超えると、その被扶養者はある家屋の住人全体を代表する責任者ではいられない。「家長」ではなく「世帯主」を基礎とした社会制度のチューニングは、「家族」を守りたい層からこそ、むしろかつてなく求められているのかもしれないなと。

大規模言語モデルとプロンプトエンジニアリングの進歩がどこで頭打ちになるか次第だろうけど、所定の執筆仕様をまとめておけば、「毎日1冊本を出す」ことも不可能ではなくなるんだろう。

『トランスジェンダー入門』は編集者との顔合わせ(2022.10.17)から2日で企画会議を通り、2ヶ月で(おそらく初稿が)書き上がり、翌年5月にはもうあとがきが書かれ、7月に出版されていると知った。すごいなぁ。

物語をよく読む子は長文に耐えられるから、結果的に読み書きリテラシーが上がるということのよう note.com/sakunary/n/n37bbe3940

20世紀のフィクション作家で政治家としてもっとも高い役職に就いたのは石原慎太郎(運輸大臣を短期間)かと思いきや、戦後に犬養健が法務大臣を2期務めていた。

現代日本人は文学博士にはなれるが(博士号の取得)、文章博士にはなれない(言語政策などを単独で統括する閣僚級のポストはない)

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