なんらかの社会的枠組みが与えられなければ(例:認定、表彰、評判、実績)、個人の語りが代表性〜代理性を持つとは見なされない。
だから当事者性を満たせなさそうな物語をつくり出したいとき、たいていの語り手は本人性〜私性に寄ったナラティブを選ぶほかない(たぶん)。その選択に強いられがあるかは大事だけど、別の話。
本人性を支える叙述というのは詐称や誇張に対して脆弱で、おまけにほとんどすべてのひとは無名〜匿名で語らざるを得ない。稀少でなければ有名人ではないから。
そうなると、自己紹介(や、それに代わる何らかの属性推定メカニズム。例えば「同じ村に住んでいる」「同じ言葉を話す」)が機能しづらい場では、おそらく、私性に頼ったナラティブを選ばないと、そのひとの語りは単独で通用しない。
結果としてインターネットには「お気持ち発言」が……とまでいうと飛躍しすぎか。まぁそんなような気持ちになりました。
何かにつけて騒ぎになるところの、(任意の主体)は(特定の主題)を語ってよい/語るべきでないとする「お前が◯◯を語るな」問題について考えるとき、代表性>代理性>当事者性>本人性>私性といったグラデーションで考えるとどうなるか。
代表性〜代理性は、公序良俗に照らして否定されることがある。語る資格はしばしば有形/無形の認証に基づく(例:不動産の重要事項説明)。
当事者性は、該当する主体や主題についての広範な合意が成り立たないから、よく揉める。代理性と本人性との線引きは流動的だから、よく揉める。
本人性〜私性は、表現の自由(ひいては内心の自由)として誰もが否定されない。基本的人権であって許認可の問題にすべきでない。
資本主義的な享楽(?)について考えるときには、産業連関表みたいな枠組みがかえって有効なのかな。生産の快楽(つくってあそぼ)、流通の快楽(君に届け)、消費の快楽(これは便利!)
『トランスジェンダー入門』がその後半で(かなり強い語調で)戸籍制度や「家族」概念の弊害を述べる姿勢にはしっかり共感しつつ、では具体的にどう統治コストと心理的不安を下げるかと考えると、ごく抽象的な水準では「親子」概念や複数主体のグループ化、なんらかの代理-表象システムといった論理構造を否定しきるのはかなり難しいだろうとも思う。
血縁関係や地縁的衆合を(続けたいひとは)否定せず、その呼称をゆるやかに変えていく名目的な操作がむしろ意外と効きそう、とでもいうか。学校教育では「親御さん」と呼ばずに「保護者」と言う、みたいな程度の話に落ちがちで、制度論から遠のきそうなのは気がかりだけど。
要介護世代をその子世代が多世帯住宅で扶養する風景が当たり前になっていて、認知や言語能力の衰えが一線を超えると、その被扶養者はある家屋の住人全体を代表する責任者ではいられない。「家長」ではなく「世帯主」を基礎とした社会制度のチューニングは、「家族」を守りたい層からこそ、むしろかつてなく求められているのかもしれないなと。
物語をよく読む子は長文に耐えられるから、結果的に読み書きリテラシーが上がるということのよう https://note.com/sakunary/n/n37bbe39405a5
口あけぬひつじ死んでいる