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どれだけ元気いっぱいな人でも不意に死んだりするからショッキングなのであって、だからこそダラダラ歩くゾンビ映画におけるジャンプスケアは例外的にきらりと輝く。走ってちゃ驚かされてもただうざいだけでしょ。

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ゾンビはゆっくりとしかし確実に迫ってくる死の表象なのだから、せかせか走ってきちゃ駄目なの。若くて元気なうちはそこまで脅威でもないけど、ふとくたびれてしまったとき、ああもう逃げられないんだな、と気がつく瞬間がいいんだから。

走るゾンビが流行るというのは、それだけ「だらっと続く日常」が失効し、毎日の生存のシビアさが生活感覚に根付いてしまっているということでもあるのかもしれないけれど。

どうせ走るんだろ、と敬遠していたゾン100のアニメを見始めたが、じっさいは「走るゾンビと走らないゾンビがいる」という折衷案で、この節操のなさはすごいと思った。しかしやはり走らないほうがアニメーションとしても楽しいし、カタストロフィ以後に個人としてのささやかな日常をやり直すという主題からしても、走るゾンビのせわしなさは相性がよくない。ぜったい走らないほうがいいと思う。

臓物ぶちまけ描写のスプラトゥーン演出は目に楽しい。

毎月の給与明細を眺めていると税の高さにゲンナリする。資本主義よりも国家のほうが悪だろ。

みんなどうやって音楽を聴いているのだろう。散歩中や読書中に漫然と聴くのはよくやるのだが、それこそ批評的な態度で注意深く聴くというのがどうも僕はできない。優れた音楽評を読むとき、これまで僕はいったいどれだけの音を聴き逃してきたのだろうという気持ちになって、しかし僕は耳だけで音楽を聴くというのはどうしても手持無沙汰であれこれ気を散らしてしまう。映画であれば注視ができる。本はわりと散漫だが、しかしその気になればかなり集中できる。音楽はどうも、聴覚だけに身を傾けるようなことが苦手なのかもしれない。音楽を論じる文章を書く人はそうやって音楽を聴いているのだろう。椅子に深く腰掛けて目をつむるのだろうか。目を開けていてもなお音楽だけに注意できるというのはどうも想像できない。この前の録音ではなぜひとはライブに行くのだろうかと話したが、これはあるていど映画館と同じことで、そうでもしないと人は音楽にだけ集中するということができないからなのではないだろうか。僕は音楽を聴くのが苦手なのかもしれない。人によってはこれと似たような困難を観劇や読書におぼえるのだろう。

みんなどうやって音楽を聴いているのだろう。散歩中や読書中に漫然と聴くのはよくやるのだが、それこそ批評的な態度で注意深く聴くというのがどうも僕はできない。優れた音楽評を読むとき、これまで僕はいったいどれだけの音を聴き逃してきたのだろうという気持ちになって、しかし僕は耳だけで音楽を聴くというのはどうしても手持無沙汰であれこれ気を散らしてしまう。映画であれば注視ができる。本はわりと散漫だが、しかしその気になればかなり集中できる。音楽はどうも、聴覚だけに身を傾けるようなことが苦手なのかもしれない。音楽を論じる文章を書く人はそうやって音楽を聴いているのだろう。椅子に深く腰掛けて目をつむるのだろうか。目を開けていてもなお音楽だけに注意できるというのはどうも想像できない。この前の録音ではなぜひとはライブに行くのだろうかと話したが、これはあるていど映画館と同じことで、そうでもしないと人は音楽にだけ集中するということができないからなのではないだろうか。僕は音楽を聴くのが苦手なのかもしれない。人によってはこれと似たような困難を観劇や読書におぼえるのだろう。
open.spotify.com/episode/3oE4L

ひとは自分が身を置くところの基本構造に無自覚なまま、それに行為や言動のありようを大きく規定されるが、これはそのまま誰しもがプラットフォームに新和的な形に自身を最適化することを意味しない。気がつかないまま大きくズレてるというのが大半だろう。

資本主義って個人主義と結託した仕組みだと思うのだけど、それらが全面化したように見える日本において「自意識過剰」が揶揄されるのがよくわからない。自意識過剰を忌避するような機制がいつからどのように一般化したのか気になる。

明治期に成立した私小説がすでに西洋の文脈からすれば異様なものであったように、そもそも日本文化圏で培われてきた「私」じたいが、じつは近代資本主義的な個人とは別ものだということだろうか。

きょうなんかダウナーなの、さては天気だな?

急な雷雨とかあったし、なんあたま痛くならないはずがなかった。

ものすごくつらいのだが、ポーチのなかの頭痛薬を切らしていて、じっとり嫌な汗がはりついたまま電車乗ってる。

しかしこれまでささやかな貼り紙を見つけてくれた人たちと楽しい約束を取り付けて遊んできたので、ほかの貼り紙スポットを見つけていかないとなあと焦りはしてる。

ここは便所の落書きみたいなもので、気楽ではあるが思いもしないところから声をかけられてびっくりみたいなのは起きづらい気がする。(思わぬ誤配と際限ない拡散というのはTwitterの悪いところでもあるけれど、バズと無縁な零細個人制作者としては、みみっちい規模で告知するのにちょうどよくもあった。)

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Twitterは個人の制作者として、既存の流通網に乗りうるコネや資本なしでも市場へのアクセスを手に入れられそうだという期待こそが魅力で、じっさいその期待は少なからず実現もすることもなくはない。

近所の「ご自由にお持ちください」や「インコ探してます」もしくは「魔ゼルな規犬」のような、電信柱の貼り紙的な微小広告群としてタイムラインを捉えているけれど、すでに貼り紙で溢れていて、訴求したいような人たちはもうほとんど誰もまじめに追っていなくて、個人がふらっと入って効果を得られるような場所ではとっくになくなっているのもたしか。

具体性はないが、ないからこそ大きな不安があるともいえる。

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