そんなことを考えつつ、いまの関心はすこし別のことで、もしかして「僕って頭いいのかも」ということだ。
どういうことかというと、僕はこれまで(いまでも)自分のことを「この世の誰よりも頭よくない」と思っていて、だからこそ他人の合理性につよい関心がある。人と話したり本を読んだりして、誰かの合理性を支える価値体系のようすを知るたびに「すごい!」と面白がっていた。
でもこの調子で面白がることじたい、かなり「頭よいこと」なんじゃないか? その「頭よさ」に無自覚なまま振る舞っていると、かなり有害ななにものかになるな、という感覚がさいきんはある。
貧乏な幼少期を送った成り上がり者が新自由主義的な価値観を素朴に内面化してしまうように、「頭よくない」という感覚を持ちすぎるとほかの「頭よくなさ」に対する不寛容が根付いてしまうのではないか? 俺はちゃんとやってるからこの程度の「よくなさ」で済んでるのに、誰々ときたら、みたいな振る舞いをなんも考えずやらかしてしまってないか?
まだうまく言えないけど、自分は「頭よい」ものとして書いたり喋ったりするほうがいい場面もあるかもしれないなと思い始めたという話だ。
たとえば構造主義と実存主義の考え方を知ったとき、これはたしかに理屈としては対立しているが、生活の実相においてはどちらもよくよく説明のつくすごいツールだなあと思った。
ポストモダンなんかもべつに現代ならではの思想なわけではなくて、これまで暗黙知として機能してきたような、子どもが大人の都合から上手に漏れ出ていくその機制を理論化したものに感じられる。(そういう目で見てみると文明史というのは幼稚さの領域の拡大とも見えてくる)
ひとつの見立てだけでは取りこぼすものをきちんと掴むための別の見立てがあるというだけで、ふだんの会話を「どっちの見立てがイケてるか」みたいな殲滅戦にする必要はないのだが、文字でのコミュニケーションは意識しないとそうなりがちで、なぜなら特に書き言葉の語彙というのは当人の依拠する見立てに非常に規定されるものだからだ。
書かれたものを読むとき「この書き手はどの見立て=合理性を判断するための体系を使っているんだ?」というのを問わずに自分の側の見立てだけを使うと、あまりに不合理に感じられてそもそも冷静に読めない、ということになりかねない。
今日という日に、たまたま図書館で順番が回ってきたからという理由で『推し、燃ゆ』を読んだらこれは敗戦の小説ではないかと驚いた。
弱さに寄り添うようでありたいけれど、自分から弱いほうに近づいていって弱ってみせるというのは欺瞞だ。構造のなかで相対的にもっている強さを否認するわけにはいかない。弱さの側からの視点を装ってものを言うのではなく、こうむっている優位をことさらに卑下するでもなく、強くも弱くもあるこの地点からの言葉を探すこと。安易なポジションに自己を定位してしまわないようにすること。
本日発売の『文學界』9月号に「エッセイという演技」という文章を寄せています。エッセイに限らず表現全般への賛辞として「嘘がない」という文句が膾炙している状況への異議を申し立てています。「論考」と銘打たれていますが、僕はこのエッセイ自体も一種の演技として書きました。僕は嘘つきが好き。
かきないしょうご。会社員。文筆。■著書『プルーストを読む生活』(H.A.B) 『雑談・オブ・ザ・デッド』(ZINE)等■寄稿『文學界』他 ■Podcast「 ポイエティークRADIO 」毎週月曜配信中。 ■最高のアイコンは箕輪麻紀子さん作