最近気になるのが妻が特にアジア系の人間を見た目でゲイだったりレズビアンだったりを判断することなんだよな...しかも断言する感じで。ヨーロッパ文化目線で。
アジアだと全然ヘテロの範疇である見た目やセンス、言動がどうもヨーロッパ人にとってはゲイっぽい、レズビアンっぽいと言われることがあって。単純に本人の好みの服装や髪型や話し方がそうなだけであって、しかも、そういうの全然いる。こっちじゃ珍しいかもだが。ヘテロで。という部分を無視されてる気がするんだよな...
女性が腕を組むことが多々ある。っていう文化もあるアジアの国だってあるし、そりゃあヨーロッパじゃ女同士腕組んでたらレズビアンカップルかもしれんが、アジアだと仲良し友達だよ。
オリンピック人種差別主義、帝国主義丸出しはそうなんだけれど、トランス差別まで出てくるとは思ってなかった。憎し、ローリング。
しかも全部盛り。あの差別主義者が槍玉にあげたのは非白人の非ヨーロッパ系の選手。
ヨーロッパから見た”女性”の基準とは外れた見た目の女性を勝手にミスジェンダリングする。ヨーロッパ人から見た”女性”はこうあるべき。という姿が、他所の国では文化的な要素から大いに異なることも多々ある。本人からしたらどうにもならないことで、そいつの思う女性の範疇から外れた人間は沢山いる。文化だったり、生まれつきだったり、本人のチョイスや好みだったり。
そして、その偏見をあえて立場が弱い有色人種にぶつけて扇動的に攻撃を呼びかける。
なんと狭量で愚かな人間か。
オリンピック、マジでやらん方が圧倒的によろしいバカ騒ぎやけれど、視聴者が兎に角多いからか一般的な人間がどれくらい無意識に日常的に差別心を剥き出しにするかみたいなのがネットで可視化されるので、そういう点ではある種の役目を果たしている気がする。
今車の教習所でえっちらおっちら運転を習っているんだけれど、難しいねぇ...運転...
マルチタスクが苦手な私にとっては鬼門ばかりで。
それから、クラッチの操作が苦手でね...仕組みが分からない状態で動かしてる点でしっくりきてないのだと思う。脳内で。
オリンピックの開会式、あのショーがやれ平和の祭典やスポーツの祭典に相応しくないってあるけど、あの運動筋肉バカ騒ぎ祭りが一度として平和でスポーツの祭典であった時があったかいな...
あと、キリスト教徒は落ち着け。神を冒涜してるて。
何処にイエスがいたんだよあの空間に。横並びテーブルと並んでる人が出たら全部最後の晩餐やと勘違いすんのやめや。タイミング的に何故そこで最後の晩餐やし。となるし、青いおっちゃんはどう考えてもディオニュソスやし、後ろのメンツもギリシャ風やろが。クィアなテーマにディオニュソスもギリシャ神話もよく合うよ。頭のお堅いキリスト教よりよっぽどね。残念ながら。
ありとあらゆる要素や他文化に勝手にキリスト教見出し過ぎである。ヨーロッパの文化には非キリスト教文明からの影響が常にあったことをお忘れか。
この間お世話になってる教区の神父さんたちと話してて、両方すごく芸術を愛し芸術に造詣が深い人たちなのだけれど。
私の方は美術史という芸術を学ぶ側というか、分析する側なのだけれど(愛故にね!)。一人の神父さんが言わはった「知り合いの美術史家が言っていたけれど、何百回も作品を見て、資料を探し、何度も分析し、けれど最後に見えてくるのは神の姿だ。」っていうのが、若輩者の美術史家のひよっこの私ですら、それは本当に...と思った。特に祭壇画を専門にしているとそう思う。
考えれば考えるほど、見れば見るほど、もうこの作品がこうも美しく魅力に溢れているのは神様がそのようにあれとしはったんやなぁ。という気持ちになる。それに応えられる芸術家の技術あってこその話やけれども。
結婚指輪は式前日に教会で祝福してもらったのを緊張でがくぶるしながら指輪交換をしました。
ミサ後に女性同士のカップルなんですが...と言ったのですが、素敵ですね!じゃあ、祝福するので!待ってねバッチリな祝福の祈りを探すよ!!いいのが2つあったからどっちもやろう!指輪2つだしね!
となって2回も祝福してもらいました。
ミサのお説教は神様が見てくれているんだ。と感じる内容で。
イエスキリストが伝道を始めた時家族や近しい人から拒絶をされてもずっとその教えを貫いたこと。人は社会から家族から些細な違いで拒絶されることもある。けれど、主がいつも近くにいてくれる。主が周りから拒絶されてもあり続けたように、そうありなさい。貫き続けなさい。主は誰よりもそのことを分かってくれる。という感じで。
このタイミングでは私が同性愛者で、血縁上の母と育ての父とは分かりあえず、コミュニティによってはセクシャリティもパートナーもひた隠しにしてる。そして、そこに思う所ありながら明日結婚を控えているなんてこと神父さんにはわかりようがないのに。今この言葉がお説教で...
となって。神様の愛と存在を感じた。すごい...愛されてる...
結婚しました。
結婚できました。というのが正しいのかも知れません。
私は日本人で妻はドイツ人。私は日本国籍の女性で、妻も女性。EUと居住国と妻の国と、同性婚を認めている国では婦婦になれました。
私の母国ではなれませんが。
それでもできるならしたくて。結婚しました。できました。
嬉しかったです。感慨深くもありました。それと同じくらい憤っています。
婦婦なんですよ私たち。日本ではちゃうらしいけど。なんやねんそれ。結婚しようにもできない。結婚したいのにさせてもらえない。本当に酷い。私は今回居住国で結婚できて、恵まれていたけれど、そうありたくはなかった。普通に結婚して婚姻届だって出したかった。
けどなにより、妻って言うの照れますね。妻です!私も妻の妻です!
イギリスで初のムスリム・プライドが開催。LGBTQのイスラム教徒のためのイベントであり、世間の「イスラム教は本質的にLGBTQとは合致しない」という偏見を吹き飛ばし、自らのアイデンティティを社会に示す機会に。主催者は「私たちのコミュニティにとって本当に素晴らしいお祝いになるだろうと感じています。こうした多重に疎外されたコミュニティについて話すとき、その話の全体は悲観的で、苦闘と拒絶ばかりです。だからこそこの日を祝福と喜び、そして共にコミュニティを見つける物語にしたいと思っています」と語っています。 #LGBTQ
https://www.thepinknews.com/2024/06/21/muslim-pride-2024-london-event/
最近興味が出て来て、言葉と国家、言語と政治みたいな関係についての本を色々読んでるんやけれど。
それこそ、同じドイツ語を話すが国家が異なり。政治的にも国民的にもまんまドイツ語というには違和感があるのでオーストリアドイツ語があり、学校でやるのは標準ドイツ語。というケースの国に住んでる上。
違う言語が同じ国家内に存在するためで国内に対立があるベルギーや、ドイツ語圏とはまた違う雰囲気のフランス語圏も身近にある欧州で生きてると、本当に国家と言葉の政治性にちょっと愕然とするなどしてたんやけれど。
日本で外様というか周縁てきな扱いを受けてる地方方言を母語にしてる身からすると、時折「標準語」とはこれいかに。うちらのは非標準かいなしっつれいな。とおもっていたんやけど。
もしや、この「標準語」の誕生によって真っ先に消滅の危機に晒され、なんなら青息吐息になってしまったのは首都圏、特に東京地方の階級別や地域別の言葉や東京言葉では?と思い当たって。
ふーてんのとらさん?のあれも本来誰かが母語とする大事な東京の一言葉なのでは?とか。「標準語」に淘汰されたんちゃうかとか。
国家統一に言葉の統一が重なるとろくなことならんなぁと。
今日彼女ちゃんとわんわんと郊外の方に向かってる途中おやすみでサッカーの試合かなんかあったんか小学生中学年くらいの子が友達と駄弁ってて。
私らの方やけに見てくるなぁ。と思ったら、一番小柄な子が
「素敵なわんちゃんですね!!」と声をかけてきはって、それにお礼などを言うてたら
「お付き合いしてはるんですか?!」て今度は聞いてきはるので「してるよー。」と答えたら。
すっごい笑顔で「ええですねー!!!」と一言。
少年。君、すごいな。なんというか、逆のことをする人は結構いるのだけれど、君のように素直に私たちのような人たちに対してしかも友達の前で大きな声で「ええですね!」とポジティブなことを言ってくれる人は本当に少なくて、実はすごく貴重で勇気あることで、君こそ素敵な少年だよ。 ありがとう
↑20/🏳️🌈Lesbe/Kunstgeschichte/Druck/The Old Guard/二次創作を書く人/カトリック