本日の産経新聞、西見由章台北支局長の「「平和主義者」偽装する中国 読み解く鍵はマルクス主義の「弁証法的唯物論」」がかなり悲惨で、文中に見出しにもなったこんな展開がある。
「なぜ中国は臆面もなく矛盾した措置をとれるのか。その二面性を解明する鍵はマルクス主義の「弁証法的唯物論」だ。対立・矛盾する二つの事柄を統一し、より高次元の結論へと導く思考法で、矛盾を矛盾として考えない発想につながる。この弁証法的唯物論こそが「中国共産党員の世界観と方法論」(習氏)である」。
中国共産党の世界戦略からではなく、いきなり「弁証法的唯物論」から天下って説き起こす珍論だが、「対立・矛盾する二つの事柄を統一し、より高次元の結論へと導く思考法」という唯物論と関係ない俗流弁証法の解説しぐさが、すごく原理っぽい。
https://www.sankei.com/article/20240819-I3GKDZYWVFKYLOJ2AVIKW7E3FY/
見ろ、敗残兵の鉄兜だ!
だが ぼくらが みじめに敗北したのは、
こいつが頭から打ち落とされたときではない
おとなしくぼくらが、こいつをかぶったときだ。
(ブレヒト『戦争案内』より)
この人の『ルポーアフリカに進出する日本の新宗教』(花伝社、2016年)は面白そうなのでいつか読もうと思っているが、
なんだこれは、と。
【B】
「戦争が起こったら自衛隊に志願して死ぬ覚悟のない人間は、特攻隊員をひたすらに無駄死にだと叫ぶ。」
午後9:43 · 2024年8月18日
そのすこし前は、
【A】
「この時期になると「無駄死に」と、これ見よがしに、軽々に特攻隊の戦没者を評する言説を目にしますが、気持ちは分かりますが、少し押し留まってほしいものです。
理論的に、敗北した戦争の戦死者は全て「無駄死に」でしょうし、第一「無駄死に」などと言われたら、遺族や戦没者が悲しむのではないか。」
午後1:00 · 2024年8月16日
と書いていた。
(1)【A】【B】いずれも、そこに「戦死」はあっても、「戦争」の社会的性格や階級性ははぎとられているのが特徴。はだかの「死」への評価へと切り縮められている。
(2)だから、【A】「第一「無駄死に」などと言われたら、遺族や戦没者が悲しむのではないか」というエモーショナルな根拠が顔を出してくる。例えば、「クソい戦争で人を殺させ、あげくに殺されるとは許せぬ、と激怒すべきだ」という選択肢はないようだ。
地球ドラマチック 悲劇の沈没船は語る 〜バルト海に沈んだヴァーサ号〜
https://www.nhk.jp/p/dramatic/ts/QJ6V6KJ3VZ/episode/te/M8PL1ZM786/
面白かった。17世紀のスウェーデン、帆船時代の最新鋭の軍艦が、試験航海に出ようとした途端に沈没し、20世紀にほぼ船体部分が残ったまま引き上げられ、専用の博物館で保存、展示、研究が続けられている、という話なのだけど、番組前半、沈没の責任追求の尋問の記録が文書館にきっちり残っているという話が実は肝だったり。
国王の強引な命令で無理がある構造のまま建造されたことに責任ある立場の関係者が気づきながら、国王の怒りを恐れて事前に報告できなかった経緯が明らかになっていて、スウェーデンでは、失敗プロジェクトの典型として本にもなっている、と言う話が印象的だった。
読ませる記事だった。
久保覚「中上健次は軽蔑に値する」(1982)
『戦後の言説の変遷などを研究している福間良明・立命館大教授(歴史社会学)によると、このフレーズは元々、多くの国民を死に追いやった国の責任を追及し、補償を求める意味も含む言葉だったという』
『「尊い犠牲のおかげで今の平和があると言うだけなら、遺族も納得しやすく、政府は『戦争責任』に触れずに丸く収まる。だから、特に追悼の場で使われ続け、今に至ったのだろう」』
せっかく問題提起をした記事なのに、朝日新聞、見出しを修正してるんですよね。「なのか」を削除。これ、あるとないとでは大違いです。
修正前『「今の平和は、尊い犠牲のおかげ」なのか 決まり文句を憂う元特攻兵』
↓
修正後『「今の平和は、尊い犠牲のおかげ」 決まり文句を憂う元特攻兵』
https://www.asahi.com/articles/ASS8H3K3SS8HUTIL028M.html?pn=8&unlock=1
政治的対立、誹謗中傷に拍車 ボクシング女子「トランスジェンダー」決めつけ パリ五輪:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/DA3S16012670.html
お米の買いだめをしている人いるんだ……
@hayakawa2600 卓球だし中国の選手は「早田ひな選手、是非中国人民抗日戦争紀念館にもお立ち寄りください」とか呼びかけていただきたいものです。
若い世代への戦争体験継承について、とにかくマイルドにして間口を広げる手法ってどれだけ意味があるんだろうと思う。
私は小学生のとき学校の体育館で『はだしのゲン』アニメの上映があり、半ば強制的に原爆を知った世代。言うまでもなく『はだしのゲン』は何一つマイルドじゃない。だからこそ強烈に印象に残った。その強烈さは、とても大切なことじゃないのかな。
「間口の広さ」というのは何も作品の性質だけに依存するものじゃなく、大人がそれを伝えようとするかどうかも大きい。なにせ私が小学生だった時代、『はだしのゲン』は間違いなく、読んだことのない人がいないくらい広く読まれている書籍だったから。
「継承の困難さ」を産み出しているのは、強烈なものを強烈なまま伝えることを阻む人たちであって、強烈な作品そのものではないように思う。
知覧には行くのに、大久野島には(松代には、長生炭鉱には……〔長いリストが続く〕)行かないのは何故じゃ
編集業。하야카와 타다노리 。『神国日本のトンデモ決戦生活』(合同出版→ちくま文庫)『原発ユートピア日本』(合同出版)『「愛国」の技法』(青弓社)『憎悪の広告』(共著、合同出版)『「日本スゴイ」のディストピア』(青弓社→朝日新聞出版)あり。 真理が我らを自由にする&労働が我らを自由にする。