関東大震災時朝鮮人虐殺と関東大震災時中国人虐殺には違う性質がある。
当時中国人は大きく2つの属性のようなものがあった。
一つは、商店主や事業者、所謂士業、或いは三把刀(三種の刀、調理・理髪・テーラー)、留学生等の者達。
もう一つは、土木建築・荷役等を担う労働者。
当時の日本では、国策で中国人労働者を導入していた。
商店主や事業者・留学生は上海や広東からの者が多く市街地や中華街などの集住地に住み、労働者は浙江省が多く飯場や木賃宿(簡宿)に住んだ。
関東大震災時中国人虐殺の被害者には上記2種の属性の者が存在するのだが、少なくとも被害者名簿など記録が残っている中では、被害者数の内訳は大きく変わる。
労働者の被害が圧倒的に多い。というか殆どが労働者。
もちろん留学生等の被害は数字には出にくいし、被害者名簿は労働者が主体だった送還船の船内で作成されたという事もあるかもしれないが、いずれにせよ、圧倒的に労働者が多い。
関東大震災時中国人虐殺として、最も凄惨であり、最も組織的であり、最も犠牲者数が多いのは東京大島だが、ここ中国人労働者の集住地だった。
中国人労働者はどのように殺されたか、大島では多くの中国人老奏者が住む木賃宿は大きな被害を免れている。中国人労働者は宿舎に避難している。そこに自警団が、消防団が、日本人同業労働者が主体となった集団が、在郷軍人会が、それぞれ連携して、訪問する。「明日避難するから」「荷物まとめておいて」と。翌日連れ出して殺す。或いは直接宿舎を襲う。という事をやっている。この襲撃には軍も、警察も参加した形跡がある。もちろんこのようなものがすべてではない。三河島などでは、職場なのか宿舎なのか、中国人労働者が汽車に乗ってやって来る。汽車から降りて来る中国人労働者を集団で待ち構えて片っ端から鳶口で襲っていく。みたいな事もやっている。
元々経済状況悪化から外国人労働者たる中国人労働者排斥の声が高まり、また、中国人労働者の待遇改善運動も怒っており、労使ともに中国人労働者に対する敵視が高まっていた。
ここには関東大震災時朝鮮人虐殺とは違う性質がある。
彼らは災害を好機として、災害の混乱に乗じて、外国人労働者を実力をもって排除したのだから。
もちろん、朝鮮人と間違われて殺された者がいた事は間違いないだろう。皆無とは言わない。
だが、大きな割合を占める被害者がそうではない殺されかたをしている以上、そこを無視するわけにはいかないのではないかと思う。
そして、その点には関しては、まったくと言っていいほど振り返えられてはいない。
関東大震災時朝鮮人虐殺が振り返れているかどうかと言えば、それは当然良く言えば不十分だし、ほとんど振り返られていないともいえるだろうが、中国人虐殺はまったく振り返られていない。
これで良いワケがない。
と思うけどね。
書評(2023年10月、部分)
佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪』
(前略)
「不逞鮮人の暴動」というデマを拡散して武装した自警団の出動を要請したのは警察と役所であり、虐殺の見本を見せたのは軍隊だった。しかし官憲が組織した(消防団や在郷軍人会などを主体とする)自警団は、地域に居住していた朝鮮人(女性や子どもを含む)をはじめ、警察署さえも襲撃してそこに保護されていた朝鮮人を殺害するまでにいたる。日本人であっても「日本人」だとわかった上で殺害している。彼らは「「不逞鮮人」と「善良な朝鮮人」の区別を拒んだのと同様、「朝鮮人」と「朝鮮人に似た人」も区別しようとしなかった」。権力によってひきがねを引かれた民族虐殺(エスノサイド)は、民衆の凄まじい暴力を爆発させたのだった。
国際問題に発展しかねない事態を前にして当局は、軍や警察による虐殺はなかったことにする一方、自警団にやられたのは「朝鮮人ばかりではない、日本人も」というストーリーを震災四日後から流布する。軍官民一体となったエスノサイドに「日本人も殺された」を並べることで、朝鮮人・中国人への虐殺を相対化しようとする意図的なすり替えだった。今も根強い虐殺事件のストーリーをあらためて検証する労作だ。
植物は強いな。タイムスパンも人の考えるスパンとは違う。
津波浸水地が希少植物の宝庫に 南相馬・小高、「再生の使者」など25種類 | 福島民友新聞
https://nordot.app/1201679527276675979?utm_content=buffer10923&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer
天気予報サイトを見てたら「多様性ってなんだ」という広告が出ており、なんじゃと思ったら自衛隊員募集の広告であった。なんかこう、イスラエルの「ピンクウォッシュ」を彷彿とさせるな。多様性からもっとも遠い組織じゃねえか。
ほんと関東大震災時中国人虐殺ってのは多くの方の視界には入ってないんだよね。
ヘイトクライムを語る時に関東大震災時朝鮮人虐殺からいまの北関東で行われている悍ましい憎悪煽動まで、それが延長線上にあるという話をしたとして、その事自体はまったく否定するつもりはないのだか、そこに嫌中や関東大震災時中国人虐殺は入ってこない事がママある。
知らないのか巻き添えという認識なのか、いずれにせよ視界には入ってない。
ここにね、わたしが関東大震災時中国人虐殺に拘る理由がある。
でもねえ、あんま中国人中国人言ってると、愛国心から来る行動なのかとか、民族に誇りを持ってる人なのかとか、別に否定的な意味ではなくともそんな感じに思われているんじゃないかと心配になる。
わたし、いかなる国家に対しても「愛する」という意識を持つ事を拒否してますし、同様にいかなる民族に対しても「誇り」とか「愛する」とかいう意識を持つ事も拒否しているので、そう思われるのは非常に悲しい。
なので、わたしが拘る必要がないように関東大震災時中国人虐殺とかもっと取り上げて欲しい。
しつこく埴谷雄高を引用して誠に恐縮でありますが……
「人間が条件によって可変的であるとの革命的な認識は、まず、固定したかたちの敵を容認しなくなったばかりでなく、一般に人間を敵として設定することをも不可能ならしめたのである。もし与えられた条件が変革されれば、それまで敵と見られたものも敵でなくなってしまうばかりか味方にさえなるのであって、敵は与えられた条件自体であるというその認識はひたすら、人間のみを敵とすることによって冷酷な死と流血を歴史のなかに記録してきたこれまでの政治のかたちに、ひとつの決定的な終止符を与えるまさに革命的な転変なのであった」(埴谷雄高「政治のなかの死」1958年)
おのれを含むところの人間の可変性についての認識を支えるのは、〈人間のみを敵とすることによって冷酷な死と流血を歴史のなかに記録してきたこれまでの政治のかたちに、ひとつの決定的な終止符を与える〉ことをめざす思想的背骨
QT: https://mastodon-japan.net/@lematin/113039426860929300 [参照]
「私も「正義」の被害者です!」と一勢に手を挙げるありさま
だんだん「率直に意見を述べて議論をできない社会、それはたしかに民主主義の危機である」規定の寝ぼけぶりに腹が立ってきたわ……
QT: https://fedibird.com/@hayakawa2600/113042446736637965 [参照]
星野寄稿へのコメントプラス、今朝見ると執筆者がさらに増えていてまたびっくり。「カルト」規定に疑いがなかったり、「率直に意見を述べて議論をできない社会、それはたしかに民主主義の危機である」と〈民主主義は工場の門前で立ちすくむ〉状況どこ行った?的なものなどを見た。
「傲岸、卑屈、執念――これが階級社会を反映した組織の枠内に必ず起る精神の三位一体である」(埴谷雄高「政治のなかの死」1958年)と、スターリン批判のころからえぐり出されてきた半世紀以上の歴史があるわけで、それを「カルト」性と特徴づけるのはあまりにも平板であるのみならず、〈政治〉にまとわりつくその傾向の普遍性を突き出すよりも、単に外部化と排除しかもたらさない。それこそがまた、絶えず「敵」とのあいだに線を引き続ける、〈政治〉の再生産ではないのか。
昨日から話題の朝日新聞星野智幸寄稿、これについているコメントプラスを読んで、いろいろびっくりした。
いずれのコメンテーターも、ひどく「正義」に疲れていたり、「正義」に依存なさっていたご様子だが、それはホントなのか? それってバーナム効果なんじゃねえの?……と思うが、いずれのコメントにも欠けているのが、こうした「正義疲れ」を満喫できる自分ってなんなの?という自問だ。
https://www.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html
「「正義」の無謬性に完全服従し全身を預け、個人を重視するはずのリベラル層が「正義」に依存するために個人であることを捨てている状況。」(能條桃子)
おいおい、「個人であることを捨ててる」ホントかよ的に唖然。
「この虚しさを振り切っていくつか論考を書いたのだが、そのとき私の胸に去来したのが「正義」への依存だった。自分は正しい指摘をしている。そう自らを鞭打って、今やるべきことをしなければならないのだと自らを納得させ、進まない筆をなんとか動かした」
(平尾剛)
えっ、それは「正義への依存」なんですか?
「純粋に善や正義を求め、悪を排そうと正義感をかきたてると、集団も自身もカルト化するのになかなか気づかず、ブレーキはかけられないのだろう。」(江川紹子)
はいはい、カルトカルト……
2024/8/27付の星野智幸の文章
https://www.asahi.com/articles/DA3S16019473.html
複数の人がリンクしながら好意的に書いているのを読んだのだけど、よさがいまいちわからなくて、話の起点になっているらしい2013/12/25付の文章も都合読んだ。
https://www.asahi.com/articles/DA3S16019473.html
それで、ちょっと呆れているのですが、すみません、どうして10年たってこういう心境になっている、この人の言葉のどこがありがたいのか、余計にわからないですよ。。。
色々わからないですが、「洗脳」だとか「カルト」だとかこんな雑に言われても。
それで、この雑さが歓迎される界隈へのアピールで、トランス排除主義な人たちが、トランス人権を主張しているみなす人たちをひとまとめにして、「カルト」呼ばわりしているのですが、星野智幸の上記の寄稿程度の修辞が褒められてしまうのだとすると、あの種の攻撃は有効ということで、諸々いやな風潮だなと思う。
編集業。하야카와 타다노리 。『神国日本のトンデモ決戦生活』(合同出版→ちくま文庫)『原発ユートピア日本』(合同出版)『「愛国」の技法』(青弓社)『憎悪の広告』(共著、合同出版)『「日本スゴイ」のディストピア』(青弓社→朝日新聞出版)あり。 真理が我らを自由にする&労働が我らを自由にする。