@hayakawa2600
この手の頭ばっかり口ばっかりで手前は何もしない連中がチヤホヤされていることに私は失望を通り越して怒っています。
さんざ繰り返されている「不正義」に対して何かアクションを起こした事があるんでしょうかね?このちんちくりんは。
私が彼のような人間と相対したら問答無用で頭髪を毟ります。たまには手前で動いてみろよ、と。
「リベラルに疲れた」とか「正義への依存だ」とかどうしようもねえ反応が多くて、それに疲れるわけですが、この国は、ともかく与党に対する疲れ、というか、与党がとにかく居座っている。メディアも、それに対して何も言わない過去の戦争犯罪も開き直っているし、謝罪したからいいだろ(それは謝罪でも何でもない)とやっている。
選択性夫婦別姓だって、本当にろくでもない理由で反対している鮮明な馬鹿のせいで通らないし、安く使える奴隷としか外国人を扱っていない。
とにかく、ここ数ヶ月は私は上がいたぶってくることに関して、どうしたものかねぇと思っているし、百合子がいくら票を減らしたとは言え、再選してしまったことに対する怒りもある。なんでこんなに絶望的に無関心でいられるんだろうか?
そして、それは難しいことなのだろうか?
余裕がないからこそ、そこに割けるスペースがないのかもしれないけれども、今なお日本はパレスチナに対する一方的な虐殺を黙殺しているし、愚かなほどに巨額な軍事費で兵器を買っているし、終わるはずがない基地を沖縄に建て続けて、兵士が起こした犯罪を黙殺している。目をつぶったとしてもね、それは起こり続けているんだよ。
「正義の暴走」なんてのは、便利な概念でござんして、どんな思想を持っていようが、付和雷同の結果であろうが、逆に大勢の意見の方が正しかったのに、それをガン無視した結果だろうが、権威とされる何かに唯唯諾諾と従った結果だろうが、逆に権威とされる何かを全く信じなかった結果だろうが、自分の考えで動いた結果だろうが、自分の考えを捨てて大勢に盲従した結果だろうが、ともかく、良くない結果さえ起きれば「正義の暴走」で説明が付いちまう。
要は「正義の暴走」なんてのは「世界は5分前に、まるで遥か昔から存在し続けたかのような初期状態で生まれたんだ」仮説みて〜に大概の事を説明出来るからこそ、逆に何も証明していないし、未来を予測するのには役に立たない。
「正義の暴走」なんてモノが存在するなら、それを防ぐのに一番役に立たねえ代物は「正義の暴走」って概念それ自体だ。
「正義」とか「悪」とかを実体化して語るところからして落とし穴で、担い手である人間が消える。前掲の関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺にしても、ある人間たちが・特定の信念にもとづいて・虐殺したというしくみを、抽象化して文学的修辞におとしこむのよくない。
「「やつら」を懲らしめようとする正義の暴走です。関東大震災の時の朝鮮人虐殺が、まさにこれでした」
https://www.asahi.com/articles/ASR9X3SH1R98UPQJ00J.html
佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪』を読むと、自警団構成員は「殺してもいいという国家のお墨つき」が出たとして倫理のリミッターを外していたことが指摘されている。
「民衆は国家の後ろ盾を強く意識し、「公許の殺人」を犯したと認識していた」
「国家との間には、前線の兵士同様に「殺しても良い」という黙契が成立していた。当初の経緯を考えても、彼らがこの黙契を信頼するのは当然であった。言い換えれば、彼らは町や村を代表して、朝鮮人に「報復」を加えた」(以上、上掲書)
「俺がやる」と「やってもいいらしいからやる」との違い。「せっかくだから殺した」的な証言もあった。
「正義の暴走」と(いささか紋切り型に)抽象化する前に、国家という権威が許せばぶっ殺してまわる根性をえぐり出したい。
(2023年10月3日のツイートを再掲)
熊本県天草市天草町下田北にある「轟[とどろき]の滝」周辺で水遊びをして下痢や嘔吐[おうと]の症状を医療機関に訴えた人が相次いでいる問題で、熊本県が一帯の水質を調査した結果、ノロウイルスが検出されたことが27日、分かった。同日午後3時から、県が記者会見を開き、詳細を説明する。
【独自】天草市・轟の滝、水質調査でノロウイルスを検出 熊本県が午後3時から会見|熊本日日新聞社
https://kumanichi.com/articles/1528248
伊藤隆さん死去 近現代政治史の第一人者、オーラルヒストリー開拓
https://www.asahi.com/articles/ASS8V2PHLS8VUCVL00XM.html
謹んで哀悼の意を表します。伊藤先生の日本近代政治史への貢献は大変大きなものがあります。私は一応、伊藤先生の孫弟子にあたり、伊藤先生の「革新派論」に基づいて論文も書けば授業もやってます。
しかし、東大を停年された頃以降の伊藤先生の行動や言動については、かなり批判があることも事実です。3年前の辻田真佐憲氏によるインタビューを読んで、さすがにがっくりして私も思うところをツイッターに長文で述べました。今も思うところは変わりません。
https://x.com/bokukoui/status/1383797191320342533
呉座勇一さんの一件に関連して述べたことと同じですが、「自分はイデオロギーから自由に実証をしているのだ」というイデオロギーにはまってしまうと、東島誠先生の言葉を借りれば「ネトウヨ化」してしまうのではないでしょうか。伊藤先生もその例だったのではないかと……
蛇足:70年代の論壇誌に散見される「セクト」批判はテキトー「日本人」論とか「集団主義な日本人」観とかも援用されながら展開されているものがあったが、そんな民族的特性に還元しなくても、ある種の「政治」に必然的につきまとう普遍性を持ったものではなかったか。
このへんのナショナリズムについての認識から、「一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある」という方向性まで、なんともピンボケというか、なんつーか
「長年の経済的停滞等で疲弊したところに、東日本大震災と原発事故が起こって自分を支えられなくなった日本のマジョリティーの人たちは、絶対に傷つかないアイデンティティーとして「日本人」という自己意識にすがるようになった。個人であることを捨て、「日本人」という集合的アイデンティティーに溶け込めば、居場所ができるから。それは依存症の一形態であるが、誰もが一斉に依存しているから自覚はない。日本社会がそうしてカルト化していく傾向を変えるためには、強権的な政権への批判だけでは不十分で、一人ひとりが自分の中にある依存性を見つめる必要がある」
社会の党派的分断が最近起こったことであるかのように語られているの、珍しくもないありふれたものだが、目にするたびに驚く。
「現在のぼくは、政治や社会を語るこういった言葉が、単に消費されるだけで、分断されていくばかりの社会において、敵か味方かを判断する材料でしかなくなっていると感じています。」(寄稿)言葉を消費されて 作家・星野智幸 https://www.asahi.com/articles/DA3S16019473.html
編集業。하야카와 타다노리 。『神国日本のトンデモ決戦生活』(合同出版→ちくま文庫)『原発ユートピア日本』(合同出版)『「愛国」の技法』(青弓社)『憎悪の広告』(共著、合同出版)『「日本スゴイ」のディストピア』(青弓社→朝日新聞出版)あり。 真理が我らを自由にする&労働が我らを自由にする。