最近、paint voiceというスマホアプリを見付けた。
そして五線紙に書いたフレーズを打ち込んでそれに演奏させたりしてみているのだが、割ともっともらしい音楽に聴こえてしまって少し困惑している。
作者が聴くから「もっともらしく」聴こえてしまうのかもしれないが……。
何でもvocaloidっぽいutau音源をインストールできるだとかいう話で、試しにインポートしてみたら割と満足のいく音声のように思われた。
歌詞も歌う事ができるので、適当に歌詞も入れておいた。
取り敢えずダカーポアリア的な何かをこのアプリの為に少し書いてみたが、恐らくもう少しモダンな(?)というか現代風の曲を書く為に用いる人が多いのではないかと想像する。
複数のパートを扱う事もできそうに思われる為、合唱もできるのかもしれない。
複数の合成音声にそれらしい歌詞を歌わせつつ合唱用のフーガだって演奏させることができるのかもしれない。
夢は膨らむ。
しかしスマートフォンを用いて作曲された合成音声による合唱が「私の魂は神をあがめ」等という歌詞を持つフーガを歌っているさまは、「別に何も間違ってはいない」(?)のかもしれないがどことなく奇妙で倒錯的であるような気がした。
なにせもうフーガを書くような時代でもない訳だし……🙄
何らかの音楽を書く時にどう記譜したら収まりが良いのかしばらくモヤモヤしていたのだが、結局バッハの旧全集のように書くと気持ちが落ち着くような気がした。
多分普段見慣れているというか、一番見る事の多かったタイプの記譜だからだと思う。
バッハの教会カンタータを聴くと切り替えてには大体ペトルッチのライブラリーから引っ張ってきた楽譜を読んでいたから、結局はそれが原因なのだろう。
おかげでハ音記号によって記譜された声部を読むのに慣れてしまった。
テナー声部がト音記号を用いて書かれていると、それが一般的であるらしいとは知っているものの妙にソワソワするようになってしまった。
尤も教会カンタータでは大抵合唱部分においては器楽が声をなぞっている事が多いと思うので、ハ音記号を読めなくても問題がなかったと言えば問題はなかったのだろう。
それに声楽によるソロ部分は単体であれば幾ら何でも読むのはそう難しくないように思われるので、結局のところ読むのに慣れている等と言っても自分の読譜能力は一般人とそう変わらないのかもしれないが。
2時間強もある動画ですがお勧めです。
たまに平均律クラヴィーア曲集を聴きたくなる時があるのですが、その時にはこの動画から視聴しています。
流石に全部を聴き通す程の時間的余裕はない事の方が多いので、少しだけ聴きます。
楽譜が表示される為、音楽の内容を理解しやすくなっているかと思います。
"J. S. BACH - The Well-Tempered Clavier: Book 1 (ROSALYN TURECK)" を YouTube で見る https://youtu.be/WpF3ggEKQfs
【紹介】
記事中にある、宮沢賢治の以下のフレーズには宗教の影響があるような気がします。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
「みんなのほんとうのさいわい」
強靭(?)な思想(?)があればこそ、思い切った行動を取れたりするのだろう等と思いました。
現代の資本主義的な世界においては思想や宗教は銭にならない等と思わているのかもしれませんが、(儲ける事ができるかどうかはさておき)意外と何らかの突破口的な……風穴のようなものをこれらは作り出す事ができるのかもしれない等と思いました。
※読んだ方も多いかとは思いますが、『グスコーブドリの伝記』は面白いと思います。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない | 忘れ得ぬ言の葉-日本語検定 https://www.nihongokentei.jp/essay/kotonoha/column-30.php
【紹介】
ふと最近神谷美恵子氏の事を思い出して検索してみたら引っ掛かった記事。
末尾に「そうして詩によってしか扱い得ない病のあることを悟ったのである」とある。
この記事を書いたのは終末期医療に取り組む医師らしいが、この最後の文章の他にも人生が進むにつれてものの見方(?)が変化していったらしい様子をこの比較的短い記事の中から自分は感じ取った。
深みというか、滋味のある(?)内容だという気がした。
【紹介】
誤字脱字が多いが、面白い文書だと思います。
「毎日の読書」は色々なタイプの文書を含んでいて、時には眠気を誘う事もあるかとは思います。
しかし、この文書を読んだ時は流石に目が覚めました。
劇的だと思います。
アダムとキリストを出会わせるというアイデアは比較的珍しいような気はします。
信徒の皆さんはこの説教を聴きながら、自分のところへ訪れてくれたキリストの事を思い浮かべていたのかもしれません。
※このブログ記事には、大体1年分「毎日の読書」が打ち込んであるようです。各記事の日付は単に入力した日付を指し示しているのだと思います。
古代の説教 主は陰府に下られる - 毎日の読書 「教会の祈り」 https://blog.goo.ne.jp/y_yuki123/e/5edaa7e75d42777c7527a61ce77572ba
どこをどう訴えるか、そのやり方によって勝てる争いもあるのではと思いました。
類似性という事について言えば、1600年頃から300年近く続いてきたような慣用的な和声法に未だに根差しているような音楽は恐らくそのコード進行において殆どどれも大きな違いがないのではないかと思います。
ともあれ、類似性の判定の方法についてそのやり方が既に確立されているのかどうかは流石に気になりました。
類似性に関して言うならば、替え歌はNGなのでしょうか?
多分こうした著作権(?)には色々な段階というはレベルがあるのではと思いますが、基本的にこういった争いは法律の問題であって音楽学の出番は実は多くないような気はします。
勿論音楽的な論点から論じる事に惹かれはしますが、裁判に関わる人達が音楽に関する理屈に関心を示してくれるのか少し疑わしいように自分は思います。
というのも音楽を理屈によってではなく感性によって理解(?)(鑑賞?)しようとするのが一般的なやり方であるように感じているからです。
なお、Ⅰ:ⅰ₆はⅣ:ⅴ₆と同じと思われますのでドミナント機能を持つと解釈する事もできると思います。
また、ⅲは基本的にトニックとドミナントの両機能を持つと解釈しておくのが無難であるような気はします。 [参照]
wikipediaにおいて人権のページを見てみましたが、「人権が(時空を超えるような)普遍性を備えた概念」かどうかは自分にはよく分かりませんでした。
人権は恐らく現代においてはドグマ(教義)と化しているのかなと思います。
その価値体系に沿って行動する事により利益を引き出せるのかもしれませんが、「人権とは本当に普遍的なのか」をいつも疑うようにしておくのが他者の人権(!)を守る上において大事な態度なのだろうとも感じました。
人権が(普遍的のみならず)生得的なものであるのかどうかという点については、自分の感覚はそれはYESであると言います。
しかし自分の頭は自分の感覚に対して、何故YESと言えるのか根拠を示すよう要求しているような気がします。 [参照]
「適当な事を言うのはダメ」みたいな発言を聞いたけれど、それは時と場合によるのでは??
必要な時には厳密であった方が良いのは確かだろうけれど、そんなに必要ではない時に厳密であると……それはいわゆる「狭量」に属してしまうのでは??
また厳密さ•正確さを志すあまり、問題を過度に限局的に捉えてしまうという弊害もありうるのでは??
つまり限定的な状況へと問題を細分化し「森を見ずに木だけを見る」という問題設定をしてしまえば、問題は「分かるようになる•解けるようになる」のだろう。
でもそれは当初の問題意識から随分離れてしまってはいないだろうか?
果たしてそうやって「解いた」問題は全体と関連があるのだろうか?
何か意味のある答えになっているのだろうか?
バッハと比べると終止形には工夫が見られるように思う。
というかこれは恐らく傾向の違いなのだろう、バッハは正統的な如何にも終止形ですと宣言するタイプの堂々としたクライマックスを描きたがっていたように自分には思われる。
一方、クレープスは今のところ自分はまだ多くその作品を聴いてはいないものの変化を加えつつより淡白な終止を築いているように思われる。
加えてクレープスの方がアーメン終止的なⅠ−Ⅳ−Ⅰの終わり方に寄せていっているような気はする。
こういう傾向は両者がどのような場の為に書いたかが影響しているのだろうか、つまりクレープスはオルガン向け(つまりは教会向け??)に書くことが多かったというような?
……この件に関しては、もう少し調べてみてから判断を下そうと思っている。
バッハの弟子であるらしいクレープス(?)……の作品らしい。
バッハはこの弟子を優秀であると見做していたらしいのだが、この曲の前奏曲部分におけるペダル声部の巧みさ(?)とフーガ部分の技法の充実は確かに優秀だと自分も思う。
フーガ部は二重フーガをベースとしていながらも、第一主題に新たな対旋律が導入される点がバッハには無かったやり方かと思われる。
そもそも二重フーガを書いてくれるだけでも有難いと感じるのだが、もっと欲を出すなら第二主題はもうちょっと旋律性を出すというか主題らしさを出してみても良いのではないかと思う。
"Krebs - Krebs-WV 402, Prelude & Fugue in C minor w/ score" を YouTube で見る https://youtu.be/ZFZMNpkMPRM
圧倒的な趣味の良さ……。
尤も趣味の良し悪しを比較する事自体が野暮なのかもしれないけど、ハイドンは特にその点において抜きん出ているように自分には思われる。
この点においては他にコレッリも思い浮かんだのだが、コレッリのはまた性質が違うかなとは思う。
ハイドンを聴くと芸術家の自己表現としての音楽は本当に必要だったのだろうか等と思えてくる。
多分この種の音楽はある意味ハイドンを終点としていたのかな……等という気もしてくる。
"Haydn: Keyboard Sonata No. 13 in G major, Hob.XVI:6" を YouTube で見る https://youtu.be/hmmRioVBOZ0
随分暑いな💦
室温が29.8℃を記録してしまった。
冷房が必要そうだ。
区議選では某国政政党が支援している候補を注視しているのだが、多分本人だけではなく周囲が積極的に応援へ入る事によって「泡沫候補ではない•沢山の人が支援してくれている候補」だという印象を有権者に与える方法が割と効果的なのでは……と思う。
確固たる組織票を当てにできる候補達と違ってウッカリすると落選しかねない候補というのは戦い方に工夫が必要であると思う。
尤も打ちたくても実は打つ策が限られていて落選する可能性が非常に高い候補というのもいるにはいるとは思うのだが、戦い方次第では当選できそうな人が力及ばずとなるのは、見ていて勿体ないと感じる。
世の食べ物は食べられた物が食べた人に似るが、聖なる食べ物(いのちのパン•キリスト)は食べられた物に食べた人が似るのである。
↑これは……例えば鶏肉を食べると鶏肉は人間に似る。しかし聖体拝領すると寧ろ世間一般の常識とは逆に、信徒はキリスト(聖体)に似る……という事を言いたいのだろうなと思います。
「では人間は鶏肉を食べるとチキンになるのか」とか「確かに牛肉を食べた後に横にすぐなる人間を『牛になる』等と言う」とか「いわゆる牛人間やキノコ人間というものはそれらを食べた結果なのか」等というやや不毛な問いが思い浮かびます。
抑制しようとする意識を少し休ませて、浮かんでくる発想をそのままにしておくと面白くなってくる事もあるとは思いますが支離滅裂になったりもするようですね😅 [参照]
あまり関係ないとは思いますが以下の事を思い出しました。
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(その1)
"Man is what he eats"に関連して。
世の食べ物は食べられた物が食べた人に似るが、聖なる食べ物(いのちのパン•キリスト)は食べられた物に食べた人が似るのである。
↑というようなフレーズを「毎日の読書」の中に以前見掛けたような気がして、少し調べてみたのですが見当たりませんでした。
どこだったのだろう?
多分「毎日の読書」の中ではありそうなんですが……🤔
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(その2)
"Man eats what he is"に関連して。
誰かが身代を潰す•傾ける事を揶揄してと言っているのかなと思いました。
蛸やウロボロスも自分の身を食べるのかもしれませんが、そもそもどちらもManではありませんね……(ウロボロスの名を出すと深遠っぽく聞こえるのかもしれませんが……)😅 [参照]
フーガ(音楽)を好む。
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