以前紹介した映画「NO」は、チリでピノチェトの独裁を問う国民投票に関わった広告マンの話
選挙戦略や選挙宣伝は、どちらの立場でもできるし折田楓と似たようなことをしているけれど、映画NOは限られた制約の中でいかに戦うに対して、折田楓は公選法を無視して選挙をひっくり返すことをしたので倫理観はまったく違うんだよね
そういう意味でテーマは同じだけど対象的だなと思った
映画『NO ノー』予告編 - YouTube: https://www.youtube.com/watch?v=np0RLIhbDPI
やってたことは「そーゆーことをしてるんだろうな」という予測通りなんだけども、それを自慢するメンタルってのはちょっとびっくりした(;´Д`)>BTs
なんつうか「キレイな立花たかし」って感じだ。
知識というものは、互いに独立した知識が頭の中に一つずつ積み重なってだんだん増えていく、というようなものではない。知識は、他の知識と結びつき、その関係性のネットワークの中で初めて意味を持つ。
この点を素朴なレベルで考えるとしたら、知識というより、情報とかデータとか言った方がわかりやすいかもしれない。「110」という数列からなる情報は「警察に緊急連絡する際に使う電話番号」という情報とセットになって初めて意味を持つ。
個別の無意味な情報が有意味になるには、いくつかの情報を束にする必要がある。これをとりあえず知識と呼ぶことにする。さらに、知識と知識が結びつき、なんらかの認識をもたらす。そのようにして、私たちは自分の精神の中に知識のネットワークを作っていく。
知識がこのようなものだとすると、新たな知識を獲得する時、その知識がその人にもたらす新たな認識は、あらかじめその人が持っていた知識の量に依存することになる。単純に言えば、より多くの知識を持つ人は、新たな知識からより多くの気づきを得て、より多くの便益を得る。別様に言えば、知識の獲得という活動は、投入労力に対して収穫が逓増する性質を持つ。
「わかったら何か得なことあるの?」みたいな態度、マインドセットってわからないことに対する防御反応なんだよね。
それまでがいかに心理的安全性がない環境だったか想像してあげなきゃならないし、どうしてそういう環境になっちゃってるかも大人が考えて改善していかなきゃならない課題だと思う。
素晴らしいSNS戦略を駆使してクライアントを勝たせることを誇るのはそれはそれで構わないのだが、そのクライアントがパワハラを告発した人に圧力をかけて殺してるということに対してこれほど朗らかに無視できる神経というのはわたしにはわからんよ。
赤木さんにしろ兵庫のパワハラ告発者にしろ、内部から腐敗を暴こうとした人が死に追い込まれ、殺した奴が市民の支持を得る社会は底抜けに自浄能力のない社会だよ。
内部告発者を守る法律もろくに無い、制度はあっても守られていない。人生をかけて告発した人は損をするどころか殺されてしまう。それが世間に知れ渡っても大きな影響力を持たない。日本人ってのは本当に、人の命をどこまで軽く考えているんだろうか。そして、どれだけ権力に甘いのか。
“同社の被害者救済委員会は2月、石丸氏の性被害に対する補償金を1800万円と提示。同社は金額に不服を訴える石丸氏と、さいたま簡裁で民事調停を続けていたが折り合わず、11月5日に調停の申し立てを取り下げた。”
えっ?こんなレベルの金額でなんとかしようとしてたの?桁が足りなくね?
ジャニーズ事務所性被害:元「当事者の会」副代表を提訴 | 毎日新聞
https://mainichi.jp/articles/20241122/ddm/012/040/055000c
坂東から帰洛したみやこのムジナ