イザヤが生きていた当初から(生前のイザヤの言葉を中心に)書かれ始めた

みたいな話はまあそうなのかもしれんけど、

最終的なテキストから『予言』(この場合預言というよりも『未来がどうなるか?』の言及として)が事後的に後世から見て必要に応じて"手が加えられた"であろう(つまり現実の歴史的経過から外れる描写はカットもしくは改変)(後世から見て、歴史的経過の描写にもしも違和感なかった場合、少なくとも意図的な『(再)編集』はなかった、という可能性もありうる)と想定するのは私は自然に思えるので、

語られてるエピソードの内容(だよね?)から第一、第二、第三とイザヤを区分することが妥当であったとしても、

それを文書の発展史と連動させて捉えること、少なくとも最終的なテキストの「意味」全体の解釈考えるときに考慮する必要性、かなりピンとこないな〜ってなった。

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× 想定するのは

○想定するのが

(文章の編集史とか様式史的な研究も重要なんだろうけど、少なくとも、文書における個々のテキストの『意味』の話するときには、必要に応じて参照されるにとどまるべきなんじゃない……?みたいな気持ち)(解釈の土台として無視されるべきでないとしても)

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