そもそもこれは「反差別の実践をしていても生じてしまう、気づかれにくい差別」についての、身内どうしでの自己点検的な議論であり、そもそも意図的に差別や加害をしたがっている者=極右などは眼中にないし、入れるべきでもない。反差別の目的を「差別主義者=極右などを倒すこと」だと捉えているからこうなる。
『ウーマン・キング 無敵の女戦士たち』感想
なぜ日本劇場未公開なのか、配信スルーが悔やまれる2023年最大の映画です。西アフリカに実在した「ダホメ王国」…その王国を守護していた女性からなる戦士部隊を題材にした歴史映画。「アフリカは劣っている」という偏見をいまだに持つ日本社会でもこの映画は観られるべきでしょう。主演のヴィオラ・デイヴィスの演技はもちろん最高ですが、「ラシャーナ・リンチ…好き…!」ってなる先輩姐御キャラが良かった。
この国では、人の命は恐ろしく軽い。
韓国では、最近小学校の先生が学校で自殺したのをきっかけに、大規模なデモが行われた。
向こうでも公立学校の教員のストは違法のようで、みんな職を賭して参加したらしい。
20年前、私が大学を出て小学校で働き出した頃、どの地域でも、若い先生が異常な長時間労働を強いられた。韓国のケースのように、職場で命を絶つ人が出た。
私自身も過労が祟り、体を壊して退職した。
でも、誰もあの状況を変えようとしなかった。
結果、教員の数はどんどん足りなくなっている。
今、国は教壇に立つ教師の免許についての制限を弛めることまで検討している。
そもそも利権のために、教員免許に更新期限を一度設けておきながら。
学校の先生は、子どもの起きている時間の半分以上を見守る立場で。
教科の指導だけをしているわけではない。子どもの安全を半日見守る仕事なのに、
だれでも構わないと、国は思っている。
育児は、人のケアは、女の仕事なので、半人前の女でも出来るのだから、
適切な免許のない人でも問題なかろう位に思っている。
それだけ、この国の人の命は軽いのだ。
明治時代に作られた、国のための効率の良い兵隊を養成するための仕組みを、根本的には変えずに来ているので、そりゃそうなるのかな、とも思っている。
この世のつらみがすべてハラミやサラミになる呪文
誰も排除しないようにするという目標を掲げる場合、そこにはある程度の「善意への信頼」が必要になるんだと思う。他者の善意を信用できない場合、私たちは安心や安全のためにその「信用し切れるわけではない他者」を排除する方向性を、完全な排除ではないとしても選んでしまう。それは仕方のないことだと思う。頭でわかってもどうにもならないものがある、その範疇にあるもののような気がする。
善意を前提とした思考やコミュニケーションではなく、悪意を前提としたそれらをおこなってしまうのはなぜか。なぜ私たちは善意よりも悪意を注視してしまうのか。その理由のひとつは、過去に受けた加害や裏切りなどであり、それはつまるところ差別被害と同義になる。なんらかの被害を受け、傷つけられ、その傷が十分に「ケア」されていない場合、その者は他者を「善意で動く者」として信用し切ることはできない。ゆえに加害者と同じ属性を持つ者を筆頭に、他者を排除する方向で自らの安心・安全を得ようとしてしまう。
悪いのはなんなのか。まずは差別行為。そしてケアが不足しているということ。差別に反対することが排除を生んでしまうジレンマの解消には、ケアが必要だということ。悪意と恐怖の克服は、他者によるケア=善意で回復しなくてはならない。
批判と誹謗(意地悪/悪口などなど)の区別がついていないまま「私と異なる意見を言うのはいいけど批判的なことは言わないでほしい」とか言っちゃうの、著名人であるかどうかにかかわらずよく見かけますけど、PとCの区別がついていないままなされるあらゆる言説もそれと同じじゃないですか?(つまり「あなたが言っているそれはP(批判)ではなくC(誹謗)ですよね」という話)
言葉の定義を丁寧に設定したうえで発信すべきものがあり、それをしないと本来大切にされるべき事柄が背景に退いてしまう。
自分の言説は誰のどんな振る舞いに対しての批判であり、かつその批判はどのような状況にある者に対してなされているものなのか、そういったことを明確にすること。つまり「細かく場合分けをして厳密に慎重に対象を絞って言及」する、ということを、みんなあらためて意識してほしい。だから、「ちゃんと事情追えてないし知識もあんまないんだけど」みたいな状況に自分があるのであれば、そういう状態で「公開設定で」なにかを言うのはやめてほしいし、それでも言うのであればそこになされた批判は真摯に受けとめるべきだし、そういう言説を見かけた他者はそこに書かれているあらゆる情報を鵜呑みにすべきではない。自分の思考や理論をクリアにするための試行錯誤は、センシティブなテーマを扱うときにはクローズドな場所でやってほしい。その試行錯誤を目にしただけで実存を脅かされる者がいるということ、忘れないでほしい。そして、自分がいま表明している批判はどのような主張をしている者に対してのものなのか、あらためて確認してほしい。その批判は、自分が想定しているより「大きな枠組み=批判されるべきではない者」に対しても届いてしまっているかもしれないので。
とりあえず、いま、私が言えることはここまでになります。
だから、自分が差別に反対という姿勢をとっており、かつそのための主張をして、そこになんらかの反論が来たとき、確認すべき大前提としては
①差別に反対である、それをなくそうという意思がある
というものになる。つまり①を共有できている者なのかそうでない者なのかの場合分けをここでする必要がある。
そして「○○を差別するな」という主張をしている者がいるときも、まず確認すべきはここになる。①を共有できていれば話ができるし、お互いの意見をより合わせてよりよい道が開けるかもしれない。しかし、共有していない場合は話をきく必要はない。
つまり厄介なのは、表面上は同じ「○○を差別するな」という主張をしていても、内実は①を共有していない者がいるということ。そこの判断を適切にしたうえで、批判すべき点があれば批判をする。しかしここがぐちゃぐちゃになったままでも言論を展開できてしまうのがSNSであり、その積み重ねが「いま」なのだと思っている。
とにかく、属性と行為は切り離して考えること、常にそこは外してはならないポイントだと思う。なぜなら差別・ヘイトとは属性と行為を結びつけることから始まるから。
しかしこれはなかなか難しい。たとえば我々はどうしても「自民党だから」とか「ネトウヨだから」とかの理由でもってその行為を認識してしまったりする。属性と行為を切り離して考えるのならば、たとえば「公文書を偽造したこと」とか「嫌中嫌韓の言説に飛びついたこと」とかそのものだけを批判すべきなのだけど、どうしてもそこに「自民党だから」「ネトウヨだから」を結びつけてしまう。でもそれを続けていると、いつのまにか、なされた行為がなんであろうと「○○だから」という理由で批判するようになる(当然それはまっとうな批判ではないが)。それはもう、やってること向こうと同じじゃん、という話である。
行為と欲望を切り分けられないと、属性と個々もまた切り分けられなくなる。欲望があるということ=行為が生じるわけではないし、ある属性に所属していること=その属性に所属している他者と同じ振る舞いをするわけではない。そして後者の「属性と個々の切り分けができない」ことは差別・ヘイトの特徴でもある。
「○○」という現状ではセンセーショナルなものとされてしまっている属性の名を目にするとどうしても拒絶反応が先に来てしまうのかもしれないが、その背後にある論理をまなざさないと、より周縁化された者に対する「よりわかりにくい」差別・ヘイトに無自覚に加担することになってしまう。当然、「○○」は現在話題になっている特定の属性のみに当てはまるわけではない。
あと、クィアに含まれていようがいなかろうがどちらにせよ、あらゆる存在は差別をされてはならないのであって、含まれていれば「守られるべき」で、含まれていなければ「守られなくてもいい」わけではない。○○だから差別から守られなくてはならないのではなく、あらゆる存在が差別から守られなくてはならない(ため、現状差別を受けている存在=クィアなどを守る必要がある)。
ここを履き違えると「弱者だから」→守らなくてはならないという、道徳的な考え方になってしまう。差別を受けている者は生まれながらにして&常に弱者なのではなく、構造や環境によって弱者に「させられている」。反差別とは「弱者にさせられる者を生みださない」ようにするための、全方位に向けた継続的な実践なのではないか。
映画、音楽、アート、本、動物、Ben Whishawさんに夢中。全ての差別に反対。 🏳️⚧️🏳️🌈 ☮️#トランス差別反対 🏳️⚧️🏳️🌈 #ノンバイナリー差別反対 #人権 #SexWorkIsWork #戦争反対 #NOWAR