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天沢退二郎、文芸批評集もう数冊くらい出てほしい……。

基本的には誰だっていいのだが、「死」から遠いところで仕事をする作家と、「死」のすぐ近所で書く作家と、「死」のちょうどそこのところ、あるいは「死」のじつは中心部でものを書く作家とにわけられるとして、最後のものの典型が他ならぬブランショであり、そのようなブランショは不可触である(略)。(天沢退二郎『幻想の解読』)

魔女といえば、垂野創一郎さんのブログで紹介されている『魔王 第二号 魔女のいる文学史』はつよくオススメです。わたしのイチ推しの女性シュルレアリスト、ネリー・カプランの短篇が数篇翻訳されています(訳者の宮川尚理はウニカ・チュルン『メゾン・ブランシュでの休暇—ウニカ・チュルン遺稿集』も訳されています)。垂野さんいわく、「どの記事も驚くほどレベルが高い」「ベレンの翻訳も期待を裏切らないすばらしいものだった」「願わくはこれを訳された宮川尚理氏の手によってベレン(ネリー・カプラン)の翻訳が単行本としていつか出んことを」。そして、この「たまに連れだって古本どらねこ堂に行くK氏」とは実はわたしのことです(え!)。
puhipuhi.hatenablog.com/entry/

ラテンアメリカ文学といえば、アルゼンチンに移民した日本の書き手ですさまじい鬼才がいます。小説ではなく詩歌の分野ですが、こういう方を(自分のZINEに)いただいた原稿を通して教えてもらったのも本当にうれしいことのひとつです。

もうここ半年だけで、一生分(?)の厚意を(とても)多くの方から受け取ってしまった気がします。どうやってお返ししていけばいいのやら。

やりとりをしているイギリス人の翻訳家の方からメールをもらったのだが、その中でちかぢかliterary agentに会うが英語圏で訳されていない日本文学でなにかおすすめがないか教えてほしいとのこと……。責任重大ですが、質問してくださったのでがんばります!

東京外語大の学園祭にまた行きたい。フィリピン料理のギナタンビロビロとかモアンチャークニャイとかすごく美味しくて、サイトにレシピも公開されていたのでモアンチャークニャイは一時期しょっちゅう作っていた。フィリピンの食文化はマレー系の影響が薄いので、辛い料理はあっても唐辛子の辛さではないんですよね。(セブに計3週間いましたが、フィリピン料理だいすき)

ソウルのおみやげ。陶器アーティスト、HairyBirdboxさんの作ったマグネット。手づくりでひとつひとつ耳のかたちも違うので、いちばん耳が長いものを選びました。足の部分はフックとしていろいろなものも掛けられるすぐれものです。商品はオンラインで買えますし、一部の作品は現在期間限定で銀座の蔦屋書店でも販売されています。(絵葉書はHairyBirdboxさんとは関係ありません!)

SNSに逐一旅記録を上げる予定はありませんが(たいせつな記憶は紙のアルバムに収めます)、四度目のソウル旅行からぶじに帰ってきました。台湾を訪れたときもそうでしたが、現役の大学生から成るボランティアガイドに案内してもらったおかげで、すごく多くの場所を廻ることができました。台北もソウルも、日本語や英語など外国語を使う機会を探している学生がいます。ここに団体名などは書きませんので、関心のあるかたが万一いましたらDMでお伝えします。

(テキストサイトの定義はさておいて)「いやごと」「猫を起こさないように」「スヰス」「地球の恋人たちの朝食」あたりは、00年代に出会ったテキストサイトで別格だといまも信じています。ただ、このうち隅から隅まで読む機会に恵まれたのは「いやごと」だけなので、「地球の恋人たちの朝食」の書籍化は涙が出るほどうれしいです。

以下のページはウェブで読める浅田氏の文章にリンクを貼っているのだけど、よしながふみや長野まゆみについて好意的に語っているものがあったり、トゥーサンについては評価していなかったりとか面白い。

w.atwiki.jp/aabiblio/pages/48.

単行本未収録のものも含め浅田彰の書誌情報をまとめているウェブサイト(2009年が最終更新)。十数年分、熟読してしまった。

w.atwiki.jp/aabiblio/

対談、座談会で未収録のものがすさまじくあるということがわかった。大江健三郎とか、斎藤環とかともおこなっているのか、「世界文学のフロンティア」についての短文とかも読んでみたい。

「世界の視え方が変わる本」という言い方があるけど、藤子・F・不二雄「劇画・オバQ」とか近藤ようこ『ヴァージニア』とかジュネ「犯罪少年」とか、読んだときに本当に食事が喉を通らなくなるくらいの衝撃を受けて、「傑作」というような価値判断の審級ではなくて、「こんなものに触れてしまってよかったのだろうか」といううしろめたさを覚えたのを覚えている。読む前の自分に戻ることは許されないという点で、読書はやはり不可逆の体験なのだと思う。

「ユリイカ」J・G・バラード特集の浅田彰×日野啓三対談を何度目かの再読。これまで自分が読んだ範囲では、バラードについて書かれた文章で別格に面白いと思う。対談という形式そのものがある意味ではフラグメントを許容する容器だし、ひょっとしたらこの時期の浅田彰にとてもよく適合するものだったのかもしれない。それは、「浅田彰はある時期からまとまった文章を書けなくなった」というようなゴシップ的な事柄とまったく関係なく、構成としてのディスコ―スを要請する論考と異なり話題があちらこちらに飛んでもかまわない対談というフォーマットがこの面白さをもたらしているのではないか。

この対談を読んで伊藤計劃のこととか、あまりにいろいろまた考え始めてしまったのだが、インターネットに吐露するのはなんとか抑制。とにかくバラードというのは凄すぎて、自分の冷静さをいきなり失わせてしまうものらしい。増田まもるさんや渡邊利道さんに直接ぶつけさせてもらいたくなってくる。

帰宅してこの号を書棚から引き抜くと、たしかにそこには、映画に登場した詩句と寸分変わらない行があった。ジョージアの知人に映画の感想をしたためると、数時間後に返事が返ってきた。「გამარჯობა, vadja pshavela is one of the most beloved poets in Georgia」「we studied some of his poems at school as well. He loved nature a lot…He has a lot of masterpieces」といった言葉とともに、ジョージア映画祭で上映されているほかのおすすめ作の名が、七作あった。

この知人が、「日本という国は誰でも知っている、私の国は知っている人すら少ない」と洩らしていたのが強く記憶に残っている。島田雅彦はアブラゼ作品について、「歴史には残らないエモーションが刻みつけられている」と述べているが、刻みつけられているものは、残して行けるものだと思う。

テンギス・アブラゼ監督、「祈り」。自分の場合、興奮すると最上級のことばを濫用してしまうというクセがある。それを承知のうえで、「人生で最も圧倒された一作」と呼んでみたい。

この映画のことを始めに知ったのは、海外詩特集をおこなった2018年8月の「現代詩手帖」だった。ジャン=ミシェル・モルポワやアン・カーソンの詩とともに、「映画『祈り』三部作」という項があり、はらだたけひで、五月女颯の文章に並んでヴァジャ・プシャヴェラの詩が訳出されている。「祈り」はプシャヴェラの叙事詩を原作にしているが、この号を購入したときには読んでいない。それでも、もともと「映像詩」と呼ばれるような作品には恋に落ちることが多いから、「現代詩手帖」が取りあげるような映画監督であれば気に入るに違いないと思ったのだ。

冬に刊行予定のZINEの創刊号、翻訳小説が二篇掲載予定です。訳稿が届いたのでひと足先に読ませてもらいましたが、素晴らしいの一言です。どうぞご期待くださいませ!

韓国旅行が近づいているので前田エマ『アニョハセヨ韓国』を読んでいるのですが、台湾の雑誌「秋刀魚」(まるまる一冊日本文化紹介の雑誌)の最新号は「韓流文化日本發酵中」というタイトルで前田エマの文章が掲載されているようです(書きおろし?)。日本以外の国も日本の視線を通して眺めてみるという発想に深さと余裕を感じます。

qdymag.com/news/575?fbclid=IwY

海外の方との連絡、トーンの調整のしかたは悩ましいことのひとつですよね。わたしもつい最近、メールを送っておよそ4カ月で返信をいただいた例があります(!)。できる限り礼儀正しくはいきたいけど、催促などをする際は控えめすぎると切実さが伝わらない面がたしかにあります。事情はよくわかりませんが、うまく行きますように…。

A Canadian poet Ann Carson discusses eros using a metaphor of running. It seems pertinent to me partly because I’m in the climax of editing my own ZINE and somehow perceive it as a suspended, painful yet exhilarating moment.

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