私は、斎藤元彦に集まる「同情」が理解できなかった。みんなから責められてかわいそう、という意識がどこから来るものかが。彼に知事としての能力や胆力があるとは思えないし、優しくもカッコよくもない凡庸な中年男性に、兵庫県民以外の人たちまでが彼にシンパシーを寄せてしまう現象が不可解だった。
これまで私は「斎藤元彦」とタイプしないように注意していた。名前を記すことがインプレッションの増加に加担すると感じていたので。同様に今「折田楓」と書くのも躊躇してしまう。扱うに格好の「おもしろ」案件だし、感想を持つのも自由だけれど、皆がこのトレンドに集中し過ぎている。そこが気になる。
ただ今は、この一連の問題がどう展開し、どんな結末を迎えるのかを最後まで見届けたいとの思いが強い。安倍の時代は、追及が不完全燃焼のままでうやむやに収束するのが常態化していた。けれどもポスト安倍の時代となった今、まやかしは通用しないと社会が示さなければならない。同情の介在する余地はないのだ。
広島原爆ドームの前で明るくポーズする写真をみて、問題の根の深さを痛感した。許されざる行為であり、行政の広報としても認められないものである。
これ大事!
#紙の保険証廃止に反対します
兵庫県知事選での問題、昨日は知事の代理人弁護士の会見が各局で報じられていた。私が見た限りではあるけれど、批判精神ゼロな感じで、昨今のマスメディアらしい「ビクビク感」満載の報じ方だった。
ここ十数年ほど、マスメディアの「ビクビク感」が伝わってくることがとみに増えたと感じる。明らかに批判的な切り口で伝えるべきことでも、その背後にいる権力からの圧力を恐れたり、ある集団から大量のクレームを入れられることを恐れたりしてそれができないのではないか、つまりは「自分たちにふりかかる面倒なこと」を回避したいという(低次元の)判断がなされた結果の「ビクビク感」に満ちた報じ方なのではないかと思っている。
昨日の報道からも、「面倒を回避するためには本質に迫ってはいけない」というような、どうしようもない(低次元の)空気が報道機関を覆っているのではないかということがあらためて感じられて、もうどうにもならんな、と思うなどした。
マイナ保険証は5年ごとの更新も必要です。自ら申請しなければならず、高齢者らが忘れて無保険状態に陥る恐れもあります。日本は世界に誇る国民皆保険制度を維持してきました。それにほころびが生じることは生存権を定めた憲法25条に抵触します。<社説>週のはじめに考える マイナ保険証と憲法
イグアナの娘です。大正浪漫好き。普段着物。和裁。