ノンバイナリー当事者が書いた本で中盤まで出生時の性別が出てこなかったので、このまま書かないでいくのかなと思ったらあっさり書かれていた(カミングアウトしたときの母親の発言で間接的に示しているのですが)。

これを通じて思ったのは、古のジェンダー観でない人でも相手の出生時の性別を知りたがる、あるいは積極的に聞くことはないにせよ知ると「安心する」のはなぜなのか、ということ。

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文章で読んでいても、なんとなく頭の中で容姿を想像してしまうのですが、情報が少ないと、ずっとモヤモヤしたり、読み進めるうちに辻褄が合わなくなって脳内で修正していくうちに混乱してくるというのはあるかもしれないと思いました。
性別が書いてあるからってステレオタイプで容姿を想像するのはおかしいと分かっているはずなのですが。

陳腐な言葉ですが「頭ではわかっていても……」というやつでしょうかね。

そもそも、音にせよ文字にせよ単語だけで、全く映像をイメージせずに話に入り込むことってできるんでしょうかねぇ。

なんとなく、鉛筆と言われると僕だとチョコレート色の六角形のものをイメージして読んでしまいますしw

映像なしに読み進めるのが難しいのだとすれば、そもそもジェンダーの問題ではない可能性もあるかと思ったので。

でも、これまでは登場人物に性別を書いておけば、ステレオタイプで読者が補ってくれていたけど、これからの人は、性別で補う情報が少ない分、読みやすくするには、読者が想像しやすいような人物に関する情報を入れた方が良いとか、テクニックとして出てくるかもしれないなぁとは思いました。

身体的な特徴(身長、体重、髪型……)を描写してもなお「で、結局Sexはどっちなの?」と思いがちなので、性別(ジェンダー)特有の論点というか「重み」のようなものはあるのではないかと思います。
ただこれも何世代も経てばなくなるのですかね。

ジェンダーのことに配慮がされる社会になっても、多数派は変わらないですし、婚姻制度や恋愛は存在するでしょうから、性別に関する記載は今後も登場人物を説明する重要な情報として残るとは思いますね。ただ、これまでほど当たり前に誰もが思い浮かぶステレオタイプがなくなる分、重要度は減る気がしますが。

新しいジェンダー観であっても、出生児の性別を気になる理由という最初の問は難しいですねぇ。一般論として性がその人を表す一番わかりやすい情報ではある気がするので、好奇心として知りたくなるというのもあるんでしょうか?

生まれたときの姿のインパクトには人間は抗えないのでしょうね……

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