「リベラル批判」って、「ケアの倫理」からもされているのだけど、ロールズの読み込みの精度が極めて高いんですよね……。「ケア」の「正義性」については、かなり突き詰めて考えられている。
そこに、こんなとんちんかんなこと言われても、「……え?何??どっから??」という気持ちになります。
全ての人に「勉強せよ!」みたいな酷なことは言いませんが、せめてもの書きや新聞社くらいは人文学知を蔑ろにしないで欲しいです……。
この前の戦争展で「プロパガンダに協力し続けたことを反省して、戦後のメディアで一番頑張ったのは、実は読売新聞だったんです」という話を聞いた。社長や幹部の戦争責任を追及して、社内の民主化や待遇の改善を掲げて闘争して、頑張っていたのだが、レッドパージで負けたんだと。「それで読売新聞を去った記者たちがどこに行ったかといえば、赤旗ですね」まじか全然知らんわってなった。
驚くべきこと(でもないのかな)に当時『ガールフレンド』のギター譜なんてものが出てたんだよね。無論この曲も含む(買っときゃ良かった)
https://www.youtube.com/watch?feature=shared&v=PVuTxnQ5i0w
ちょっと待ってくれ懐かしくてガールフレンドのMV探したらどう見てもコブラなんだが!?
私の記憶だと車のトランクに誰かの死体積んでドライブする実写映像だったんだがあれ別の曲だっけ、でも音楽良いのにコブラの映像に重なるマシュー・スイートのボンヤリした顔に爆笑してしまった、いいMVな気がする……!
https://www.youtube.com/watch?si=0mRPLycflW7UkyVR&v=n12OBlcHx9E&feature=youtu.be
朱 喜哲 『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす: 正義の反対は別の正義か』(太郎次郎社エディタス、2023)読了。
ジョン・ロールズとリチャード・ローティを中心に、その議論やことばづかいを「推論主義」「意味の使用説」の立場から検討する。
ロールズが導入する「正義(justice)」と「善/よいこと(then good)」の区別、正義の「概念(concept)」と「構想(conception)」の区別を押さえ、「よい」ことについての考え方(「善の構想」(conception o the good))は個々人の考え方や価値観であり、それ同士は互いに衝突し抗争を招くことがあり得る。対して、「正義」は競合し得る善構想同士を、調停し、合意に至った状態において実現するものであり、そのための一連の手続きであるとする。
個人的には、「正義」とは構造の問題だとし、「合理的配慮」なる言葉が負担感をともなった言葉遣いだと指摘。「しかるべき調節」と訳出すべきだったとする点に強く興味を持った。
#読書
なんか「正しくあることに疲れてしまう」みたいなリベラル崩れが多い気がするよね。まあそりゃそうかもしれない。正しい自分で居続けることは難しいもの。表に出てそういう発言をしてる人だと余計に風当たりが強かったりリベラルな人から責任を付託されてる感もあるのだろうしそういう大変さはあるのかもしれないけど。自分が出来ないことを他者に求める人も多いからね。
でも正しさ・公正さに依拠してないリベラルなんてリベラルではないからねえ。依存じゃなく依拠ですよ。なので「正しさを求めていくこと」「声を上げること」は辞めてはいけないんじゃないかなあ。いつどこで、どういう発信の仕方をするかをチョイスする必要はあるのかもしれないけど。
『モンキーマン』感想
実は格闘技マニアのデヴ・パテル監督が作りたかったのはただのアクション映画ではなく、周縁化された犠牲者となった者たちのパワーみなぎる一作。国家主義や超保守的な運動が宗教的マイノリティ・人種的マイノリティ・性的マイノリティを迫害する現実…そんな理不尽さに真正面から戦いを挑む作品です。インドのクィアな文化が炸裂し、トランスジェンダー(ヒジュラ)たちがアクションで活躍してくれます。こんな映画を作ってくれてありがとう。 #映画 🏳️🌈
「リベラルな考え方に理があるかどうか、現状に即して公正かどうかという判断と、リベラルな思想は「正義」であって絶対的に正しく否定されることはありえない、という感覚を持つことは、まったく別の問題である。自分を含めリベラル層の多くが、じつは後者を求めていると私は気づいた。「日本人」というアイデンティティーが、「人種も生まれ育ちも日本だ」と思っている人にとっては、ごく自然で決して否定されない絶対的な真実だと感じられるように、リベラルな思想は疑う余地のない正しさを備えていて、そのような考え方をする自分には否定されない尊厳がある、とリベラル層は思いたいのだ。いずれも、普遍の感覚によって自分を保証してほしいのだ。」
うるせえ選択的夫婦別姓を導入しろと、辺野古を埋め立てるなと署名を持っていくだけで行政や官僚や議員に心の底からばかにされた態度を取られたこともないくせに、普通の感覚の保証もくそもあるかと言いたい
二十歳くらいのころ、道すがらの見知らぬ人の困り事とかに「あらあら、まあまあ!」と言って駆け寄っていったり介入していける歳の取り方したいなと思ってた。
信号を渡れなくて困ってる人とか、買い物袋が破けて道に荷物をぶちまけちゃった人とか、自転車で転んじゃった人とか、迷子になって半泣きのキッズとか。
誰もが見て見ぬふりする街の風景に「あらあら、まあまあ!」と驚いた声を出しながら現場に駆け寄るヒューマン。街中のファーストペンギンみたいな。
昔はある程度そういう人がいて、そう人の一言から始まってその場がサーっと助け合おうというムードになる、そういうムードメーカーがいたんだよ。実際に出す声は「あらあら、まあまあ!」ではないかもだけど。後からお節介と言われてもその批判もイケシャアシャアと受け入れながらも、まずは困り事へ声をかけて介入していける街の人でいたい。
映画と読書と漫ろ歩きを愛する氷河期世代