「古代では『賎』は半人・半物の扱いなので、『賎民(人)』とは呼ばれない。『賎』として処遇される」2頁
「民衆の間では、恋愛は選択する余地があった。恋愛が順調に発展すれば、結婚にいたる」3頁
「律令法では、男子が15歳、女子が13歳になれば結婚できる」4頁
「7世紀後半になると、中国の永徽律令を手本として、律令法を継受する。こうした一連の過程を通じて、中国的な家父長制の思想を受け入れたと思われる。日本における性差に基づく区別・差別は、この家父長制の影響が強い。
[脚注]日本の家父長制は、中国との比較で考察する方法が有効性をもつと思われる」9頁
「中国の家父長制については、仁井田隆(のぼる)の研究がある。…家長は、家が所属する氏族(宗族)の『族長権力』の制約を受けるという。… 中国においては、狭義の家は『家系をともにする生活共同体』を指すとされ、『同居共財』を旨とするという…ところが、堀敏一は…家長には家財管理の権限があるだけだという」9-10頁
「律令法が導入されても、そのなかに皇位継承法は含まれていない。天皇は律令法を超越した存在であり、律令法には束縛されないからである」13頁
吉村武彦「男と女、人の一生」23-89頁
「『をとめ』と『をとこ』に共通する『をと』は、『若い生命力が活動すること』とされ、『結婚期に達している若い男性』が『をとこ』、『結婚期にある女性』が『をとめ』だという。… …胸の幅(胸別)が広く、(蜂のジガバチ(すがる)のように)腰がくびれた女性が美しいとされていた」25頁
「『女性は結婚前には父に従い、結婚しては夫に従い、夫亡き後は子に従う』という『三従』思想は、明らかに女性差別である。なお、中国の漢訳仏典にも、儒教経典の『儀礼(ぎらい)』にもみられる差別思想である。ちなみに仏教では、インドのマヌ法典から影響を受けたとされている」28-9頁
「『陰』『陽』の中国思想を継受した頃から、男性優位の立場になっていたと思われる」33頁
「『書紀』のような結論は、男性優位を主張しており、中国的・儒教的な思想に基づいている。津田[左右吉]は、『皇統が男性によって継承せられてゐる事実に本づいた構想』と考えたが…男性中心の皇位継承論に基づいたものというのが正確である」35頁
「『書紀』の男女誕生譚における男性優位は、現行の『古事記』にはあてはまらない。『古事記』では『書紀』の中国的・儒教的な展開を是正し、元のかたちに戻したとも推測できる。…書名に『日本』という国号を冠した『日本書紀』は、中国を意識して編纂された歴史書である。中国にならい、男女の性差を意識して編纂されたと考えることが妥当であろうか。
[脚注]両者は明確に異なっており、むしろ『古事記』と『書紀』の神話の相違と、その理由の解明こそが、求められる研究課題である」36頁
「[脚注]『男キョウダイ』が『兄』、『女キョウダイ』が『妹』と呼ばれた時代があったようだ」37頁
「『ことわり、義』の特徴は、『三綱』にあるように、親族関係では夫婦ないし妻子よりも、父母・父子関係が上位にあることである」40頁
「[脚注]『子』の字については、一部に男子名という誤解もあるが、男女ともに使われている」43頁
「課役の対象者が男性であっても、その納税品の生産者が男性とは限らない。とりわけ調の布生産では女性による生産の実状が明らかにされており…納税者と生産者が異なっている。このように、生産するのが女性であるにもかかわらず、調庸などの課役は男性を対象としている」44頁
「8世紀前半では女性戸主はごく少数で、例外的存在である」47頁
「妻(家室)には独自の財産があったが、家の財産とされるものは、家長の許可なく処分することはできなかったのである。つまり家長が、家の財産処分権を保持していたと考えられる」49頁
「実際の結婚年齢は20歳代以降が多い。また、結婚する際に女性が男性より年上の場合が1割強存在する」50頁
「当時の結婚に際しては、両親の了承が必要であった。とりわけ女性の親の承認は重要である。なかでも母親が果たす役割は大きかった。親の承認をもって、恋愛から結婚へと進んだとする説もある」52-3頁
「婚姻儀礼については、結納金のようなやりとりはなく、形見のやりとりが行なわれた。作法は、男女で対等と見なすことができるだろう」56頁
「副将[河辺臣瓊缶(かわべのおみにえ)]が自分の命を惜しむあまり、妻の甘美媛(うましひめ)を新羅の闘将に売り渡したので、『(新羅の闘将)遂に(副将を)許して(妻を)妾とす。闘将遂に露なる地にして、其の婦女を姧す。婦女後に還る』ことになった。夫に失望した妻は、離縁の道を選ぶ。妻が新羅側の性的被害を受けたことはまちがいなく、戦争と性が関わっていた早い事例である」68頁
「神社の運営に関しては、男女ともに参画しているのが特徴である。 …両者の地位には本来、優劣・上下の関係はなかったという…つまり性別による役割分担として祭祀が執り行なわれていた。ただし、律令制によって男性の官人社会になると、神祇官などでは男性と女性の区別が行なわれるようになったのである」80頁
「土師器と異なる陶器については、『陶器作内人』として男が担当している。土師器と陶器作りの性別分担においては、土師器が女性で須恵器が男という土器作りの性別分担と同じである」81頁
「『夫婿なし』と書かれているので、卑弥呼は独身であった。この時期の倭国王には、独身の女性が必要だった」86頁
「女性首長の特徴について、土着勢力に対する征討活動における伝承であり、ヤマト王権下になると、女性首長は存在していなかったとされる…近畿地方の前方後円墳の主要埋葬施設に鏃・甲冑が副葬される割合は67%なので、『女性首長』は3割以下と推定されている」87頁
「女性天皇の場合は、既婚者も即位時に配偶者は生存していない。 …即位した時点では配偶者だった天皇は死去しており、独り身であった。そして、再婚して子どもを産むようなことはしない。その後に即位する天皇は、即位以前に誕生した子どもである… …女帝は既婚者であれ未婚者であれ即位時に独り身であることが特徴である。これは、基本的に男性天皇にはあてはまらない」88-9頁
菱田淳子「考古学からみる女の仕事、男の仕事」91-136頁
99頁 都出比呂志(1989)『日本農耕社会の成立過程』
「マードックの民族誌データからは、農耕・牧畜や金属器の利用が本格化する際に新たに登場した仕事を男性が中心的に担うようになり、生命の維持や再生産に関わる伝統的労働を女性に押し付けたという可能性も指摘されている。…縄文時代の象徴的遺物に対して、弥生時代の銅鐸絵画は記号的な表現になっており、性・ジェンダーについての考え方は縄文から弥生にかけて大きく変わったことがうかがえる」104頁
「地域とその生業によって『性別役割分担』のあり方は異なる… …米田穣…外洋性漁業に勤しんでも釣果は芳しくないが、それでも、男性は外洋に向かい、女性は近場での食料獲得によって生活を支えていたという、何とも皮肉な解釈」105-6頁
「伝統的な生活を営む人々の民族学的調査によって、典型的な離乳終了年齢は2ー3歳程度とされているが、蔦谷[匠]は縄文時代晩期で3歳6ヵ月、中世鎌倉の庶民で3歳10ヵ月、江戸時代前期の江戸の町人で3歳1ヵ月という離乳年齢を復元している…狩猟採集民より農耕民のほうが出生率が高くなったという仮説について疑問を呈している」106-7頁
「寺沢[知子]は…[ヤマト王権の]『弛緩・混乱期』に女性首長や最高位の女性の果たした役割はしだいに消失していったととらえている」111頁
「古墳時代は双系的でありつつも中期後葉以降父系化が進むとする田中良之や清家章の考え」113頁
「布生産の多くの過程は弥生時代以降女性が担ってきたと考えられるのであるが、その労働の成果である布は調庸布として男性名で貢納され、女性の生産への寄与はみえにくくなっている」117頁
「女性の土器作りは自家消費を主な目的とし、彼女たちは専業的ではないドメスティックな存在と考えられる傾向があるが、そうではない女性の土器の作り手も存在したと推測されることは、女性が男性の補助労働や家内労働のみに従事していたのではないことを示している」121頁
「西周時代以降、完全に男性が文字を独占し、情報管理も担うことによって、政治や学問の世界から女性は隔離されてゆく。内田[純子]は文字の発明と情報管理の発達を、男性と女性の格差が急速に拡大した要因だとしている。… …占卜の内容から、殷代には女性が地方領主となったり、領地の管理をするなど政治的役割を果たしていたことが推測されている」126頁
「一般的に、農業の発達に伴い生産性を高めるために水利などに男性が大きな役割を果たすことによって女性の地位が低下したといわれているが、[内田純子は]中国の農村では現代に至るまで男女が重労働による農業を協業しており、検討の余地があるとしている。そして、都市文明において、余剰を利用して社会が複雑化し、専業化が進むにつれ、専業化した社会活動を担う男性と生命維持活動を担う女性の分化によって、ジェンダー構造が大きく変化したとみている」127頁
「東アジアにみられる夫婦別姓は父系を重視する家父長制の産物であって、その抑圧からの解放を求め、韓国では父母両方の姓を名乗る女性も現れている」129頁
「五十嵐[由里子]は…北海道縄文遺跡では出生率が高く、女性の寿命が短く、九州弥生遺跡では出生率が低く、女性の寿命は長く、両者の男性については寿命の差がみとめられないというパターンの違いを明らかにした」135頁
「米田穣らの研究から、縄文時代、北海道や沖縄では海産物を多く利用していたが、本州では陸の動植物と魚介類を組み合わせた食生活を送っていたという地域差が明らかになっている」136頁
若狭 徹「埴輪からみた古墳時代の男と女」137-210頁
「縄文時代には、男女ペアの人物造形は行われず、女性像は土偶、男性像は男性器をシンボル化した石棒に分化していた。…同じ縄文時代の焼き物に動物形土製品があるが、圧倒的に猪が多い。猪が多産の象徴であることも、土偶の意義と通底するものと理解される」140-1頁
「<弥生時代の人物造形>… …男女ペア像の出現が指摘される。前代まで女性像に特化していたヒト形の造形に、男性像が加わるという点で画期を成すものである。設楽博己は…水田農耕における男女協業の成立をその背景に考える。… …設楽は、弥生時代において時期が下るごとに男性像と女性像の寸法が逆転し、男性像が大型化することを見出している。ここに、農耕社会における男性の社会的立場の強化が指摘される」141-2頁
「古墳時代を人物造形の存否において分割すると、5世紀前半を境に二分される。3世紀中頃から5世紀前半までは人物造形が希薄な時代である。弥生時代の系譜をひいた男女造形は姿を消し、人物を表すこと自体が禁忌であったらしい」144頁
「『刀自』は女性の尊称であり、里の人々を差配する行政執行権をもった女性が存在したことを教えている… …清家章は、古墳時代前期には古墳の初葬者は男女の割合が拮抗していたが、中期以降は男性が65%と卓越したことを論じている。ここから父系化傾向はあったものの、小型墳には引き続いて女性被葬者もみられることから、双系的な社会が継続したと考察している」166頁
「『魏志倭人伝』の『倭人はみな、入墨をしていた』との記事を全面的に信用するわけにはいかない。しかし、弥生時代には部族識別のために珍しくなかった入墨が、古墳時代には衰退し、特定の部族や職業に限られていったことは…伝承から汲みとっても誤りではないだろう」186頁
吉川敏子「男の官仕え 女の宮仕え」211-62頁
「8世紀を通じて政務のあり方が変わり、宮中(内裏)での男性の伺候が進むと、男女は官人・宮人ではなく、男官・女官と対の呼称で呼ばれるようになるが、内裏内においても男女の伺候する空間は異なっており、奉仕の場にちなんで男房・女房と呼ばれるようになる…日本の古代に女性の為政者(女帝)はいても、女性官僚はいなかった」212-3頁
「采女の性行為が大王の管理下にあることが前提にある。…采女の性が開放[ママ]されていたと論じる研究には、記紀に散見する姦通した采女や相手男性の処罰についての伝承のひとつひとつに特殊な事情をあてはめ、伝承そのものが采女の自由な性交渉を否定するものではないと解釈する説がある[伊集院、2016]。しかし、そのような伝承は、すべて采女の自由恋愛を禁忌とする前提があって成立するものである。ことの本質を捨象して枝葉で論じてはなるまい」216頁
「采女が配偶者を持つことはあったが、それが故に采女が自由な性交渉を持つことができたとすることは早計である。おそらく、彼女らは天皇の許可を得て、あるいは下命によって天皇以外の男性と結婚したのであろう」217頁
「いざ、天皇のお手付きとなった采女が懐妊したときに、それが真に天皇の胤であるかどうかがわからないということでは大問題であるから、天皇は後宮で働く女性の配偶関係を把握しておかなければならなかったはずである。 …男女が気の向く間だけ婚姻関係を結ぶ対偶婚など、少なくとも宮人には縁のない話であったに相違ない」219頁
「[男女が]異なる役割を持って連携することと、場を同じくして同内容の業務に従事する労働とは明確に弁別されなければならない」233頁
「宮人の職事が官人とともに預かり知ったというのは、物品の調達などの連携を内実とし、官人・宮人が共同で同内容の労働に従事する意味ではない」237頁
「日本には、中国や朝鮮半島のような宦官が置かれなかった」245頁
「[宮人は]しかるべき手続きを踏めば、夫を持つことも禁じられていなかった。これらの寛容さは日本古代の後宮の大きな特徴である」246頁
鉄野昌弘「『万葉集』にみる女と男——古代の歌における虚構と現実の相関」263-310頁
「詩が『言志』、男子の政治参加の意志を盛る器であった中国では、詩集にこれほど多くの男女が関わる詩が含まれることは稀である。男女を詠うのは、和歌の特徴であると言ってよい。その特徴は、平安時代の勅撰集において、四季の部と恋の部とが二本柱になるのに引き継がれる」265頁
「乱婚や性的解放は、[高橋]虫麻呂の文学的創作であり、幻想であるとする見方もある」268頁
「族内婚は藤原氏にも見られ、奈良時代に普遍的であった」297頁
「9世紀の宮廷は、専ら漢詩文が首座を占めていた」305頁
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「米田穣らの研究から、縄文時代、北海道や沖縄では海産物を多く利用していたが、本州では陸の動植物と魚介類を組み合わせた食生活を送っていたという地域差が明らかになっている」136頁