Shorter, Edward. (1975→1977) The Making of the Modern Family, Basic Books.
=1987 田中俊宏・岩橋誠一・見崎恵子・作道 潤訳『近代家族の形成』昭和堂
「わたしの考えでは、伝統的家族が近代家族へと変化したのは次の3つの分野での感情の高まりのせいであった。
<男女関係> ロマンティック・ラヴが、かつて男女を結びつけていた実利的な考えにとってかわる。結婚の相手を選ぶにあたって、個人の幸福や自己陶冶が財産やリネージに優先するようになるのである。
<母子関係> 母親と子どもの間には説明のつかない愛情——生物学上の絆の産物——があるとしても、母親の理性的な価値順位において幼児が占める順位に変化があった。伝統社会においては、母親は幼児の幸福よりもます、すさまじい生存競争にかかわって多くのことを考えなければならなかった。他方、近代社会では、子どもはもっとも重要なものとなり、母性愛によって子どもの幸福が何ごとにもまして大切に考えられるようになったのである」5頁→
(承前)「その後、これらの優先順位が逆転する。外界に対する絆は弱められ、家族を互いに結びつける絆が強められる。そして外部からの侵入に対して家族の団欒を守るために、プライヴァシーという盾がもうけられる。この家族愛のシェルターの中で、近代核家族が誕生するのである。このようにして、さまざまな家族関係において感情が重要な役割を果たしはじめる。情愛と愛慕、愛と一体感が、旧来の物質的、『実利的』な考えにかわって、家族の行為の規範となった。夫と妻や子どもは、自分が果たすべき役割や、自分のなしうる行為によってではなく、むしろあるがままの姿で評価されるようになったのである。それが『感情』の本質である」4-5頁→
(承前)「この感情の高揚が家族と周囲の共同体との関係における変化の原因なのか、あるいは結果なのかは重要な問題の1つであるが、本書では答えられていない。『近代化』の強烈な衝撃によって、伝統的家族の安住の地であった共同体の構造が破壊されたのか、あるいは広範囲におよぶ社会変化が、まず家族員のそれぞれの心性に影響をおよぼし、その結果家族が互いに手をとりあい、部外者の出入りを家族の団欒をみだす迷惑なものとして制限するようになったのか。仲間集団の信義を放棄したのが先なのか、あるいはまず家族の情緒的な結びつきを重んじるようになったのが先か。こうした問題は、にわとりが先かたまごが先かという問題と同じく、答えることは困難である」6頁
「わたしの議論はヨーロッパ全体を対象としている。いかなる辺境の村でも、家族は遅かれ早かれ感情で結ばれた家族への長い道のりをたどることになる。近代化がもたらす夫婦生活の変化は本質的にどこでもかわらないからである。男女関係にみられる実利的態度から情緒的態度へのうつりかわりや、核家族の周囲の共同体からの離脱もまた、どこでも起こった現象である。…合衆国でもそれほど劇的ではなかったにせよ——新世界は『最初から近代社会として誕生した』ものである——同じ傾向が多少は認められるだろう。感情の高揚や共同体と家族の絆の切断は、たとえ時代的なずれや地方による差異があるとしても、ヨーロッパ社会では普遍的な現象であったといえよう」14-5頁
「ロマンティック・ラヴとは、男女関係において自分から進んで何かをしようという自発性と相手の気持になるという感情移入の能力と定義しよう。自発性を重要視するのは、それが、伝統的な対人関係、共同体に強要された対人関係の否定につながるからである。…
…過去2世紀にわたって、西ヨーロッパ社会では、ロマンスが何よりもまず、男女間の心の垣根をなくし、魂の交流をつくりあげてきた。このような密度の高い心の交流がもたらした1つの結果は、厳密な性役割が薄れてきたことである。そうでなければ、心の触れ合いはありえなかっただろうし、人びとは定められた性役割の鉄の檻のなかに閉じこめられたままになっていたであろう。
もちろん、性役割が完全になくなってしまったわけではない。性役割によって社会の安定性が保障されるという近代のシステムのもとで、子どもの社会化が徹底しておこなわれたために、性役割は完全にはなくならなかった。しかし、歴史的経緯をみると、近代初頭ヨーロッパでは、一般に厳格な性役割があったが、現代でははるかにゆるやかなものになり、男女は自らの役割をより自由に決定することができるようになった。感情移入こそが、情緒的生活にこのような柔軟さをもちこんだのである」15-6頁→
「感情とは、人生の目的の重要度を入れかえ、伝統的な目的の順位を下げ、他人との情緒的結びつきを最優先しようとする心の働きであると定義してよい。感情によって次の3つの分野において優先順位が入れかわることになる。
(1) 配偶者の選択 感情は配偶者選択に影響をおよぼし、家族の利害や持参金の額といった伝統的な基準よりも、個人の幸福を最優先させることになる。この優先順位の転換こそがロマンティック・ラヴに他ならず…
(2) 母子関係 …母親の目から見て、子どもの幸福がいかなる目的にもまして重要なものとなり、その結果母親は、伝統的に家族経済のために果たしてきた畑仕事や機織りの手伝いといった仕事を減らすようになる。ここでは、感情は母性愛としてあらわれてくる。
(3) 世帯 近代化の過程において、家族は周囲の共同体に深くかかわることをやめてしまう。…家族のプライヴァシーと愛情生活が、伝統的な他人との結びつきよりも優位を占める。外界に向かって戸を閉じ、その内側で家族の成員は感情の糸で愛の巣を作りあげる。それは、フランス人か〈家族の城〉といっているものであり、われわれはそれを『家庭愛』と呼ぶ」17-8頁
「中世史に関する最新の研究では、『伝統的』という言葉は、宗教改革からフランス革命の3世紀間にもっともぴったりとあてはまると考えられている。最近になってようやく研究者も指摘しはじめていることであるが、13世紀は、さまざまな動きがいたるところで起こり、全般的に繁栄の時代で人口がうなぎのぼりに増加し、庶民文化が開花した時代であった。しかし中世後期になると、長期にわたる不況が続き…経済面、人口面、文化面についての衰退がはじまり、それは19世紀初頭まで続く。西ヨーロッパの文明史の中で、『伝統的』という言葉で表現できるのは、この衰退と停滞の時期である。後代の民俗学者たちが『太古の昔から変わりない』と考えた人びとの価値体系や行動様式が作りあげられたのは、この時期だったからである」21頁
「1795年頃のパリのポパンクール地区では、同居している子どもの平均数は、日雇い労働者の場合1.8人で、小店主の場合には2.4人であった。パリ全体でも、19世紀を通じて、この2つの階級に違いはみられ、3人以上子どもを同居させている世帯は、卸売商人では3分の1にのぼり、労働者では8分の1にすぎなかった。近代初頭のフィレンツェでも、裕福な世帯ほど大規模であったと思われる。そこでは、貧しい世帯の同居人の数は平均2.5人であったのに対して、裕福な世帯では5ないし6人であった。有力なギルドに属する手工業者の世帯構成員(平均5.5人)は、非熟練工のそれ(平均3.7人)よりも多かった。
大陸の諸都市でも同じであった。ストラスブルクの中流階級では平均して5.1人であり、下流階級では3.8人であった。デンマーク国境に近いシュレスヴィヒ州のウーズムという小さな町でも、18世紀のチューリッヒでもそうであった。これらの地域のすべてでブルジョワ世帯の規模が大きかったのは、中流階級が家業のために使用人や手伝いを多く雇ったからであり、また同居する子供[ママ]の数も多かったからである」25頁→
(承前)「1790年頃のマサチューセッツ州のセーレム…でもヨーロッパと同じような構図がみられ、世帯主の社会的地位が高いほど家内集団が大きい。平均すると1世帯あたり商人の場合で9.8人、親方大工で6.7人、労働者で5.4人であった。セーレムの中流階級は下流階級より多くの使用人と徒弟を雇っており、出生率も高く、商人と手工業者の場合、平均すると5.9人であった。それに対して、労働者は4.6人であった。
工業都市のノッティンガムでも労働者の家族規模は他の地域に比べて幾分大きいとはいえ、1世帯の規模はブルジョワジーよりは小さかった。…重要なのは、伝統社会の都市では『中産階級』の生活とは、多くの同居人がいることを意味していたということである。『ブルジョワ的』という言葉が小さな家族規模と仲むつまじい家庭を意味するようになるのは、近代化が旧体制を完全に解体し、近代的な仕事に従事する人びとにあふれた新都市が数多く生まれてからのことである」25-6頁
「ロジャ・スコフィールドは、1782年頃のイングランドのベドフォドシャ州にあるカーディントン教区で息子や娘が家にとどまった確率について次のように書いている。ここでは、男子は9歳の誕生日まで両親とともに生活するのが普通であり、11歳まで学校にかよう場合もあった。10歳から14歳の男子の4人に1人が奉公にでており、15歳から19歳ではその割合は5人に4人ときわめて高くなっている。20歳はじめの男子の7人に6人ないし8人に7人はまだ奉公にでているか、もしくは結婚しており、30歳までには、ほぼ全員が結婚してしまったと思われる。…カーディントンの女子の家庭生活は男子と違っていた。学校に行く女子は3人に1人であり、15歳までに親元を離れた女子は少なかった。15歳から19歳の時に男子の4分の3がすでに家を離れたのに対し、女子は4分の1にすぎなかった。多くの女子は、夫に手を引かれてはじめて、親の家を離れたのであり、自分自身で働きにでることなど考えもしなかっただろう」28-9頁
[↑上記に関する原注]
「わたしが、ここで厳しく批判している著者とは、もちろんわたしの良き友でもあるピーター・ラスレットである。彼は、すでに評価の確立している著書Household and Family in Pastの序で次のように述べている。『家族史における仮説ゼロとわたしが命名しているものは、資料の現状からやむなく家族という組織は、そうでなかったということが実証されれば別であるが、常に変わることなく核家族であったと推論しなければならないことであり、〔それはこの問題についてのある独特の確信〕から生まれてくるものである』。しかし、この著作のなかで示されている報告すべてが必ずしもラスレットの意にそったものになっていない。ラスレットはさらに数頁あとで次のように述べている。『複合家族が通常の人びとの通常の生活の一般的な背景となった時期や場所があったとは、わたしが考えるかぎりにおいて正しくないということにすぎない』。しかし、バルカン諸国、バルティック海諸国、ヨーロッパのアルプス地方、中央ドイツさらに中央および南フランス…の社会史に詳しい学者であればすぐに、ラスレットは公平を失しており、修正の必要があることがわかる」原注34頁
「1900年以前の幼児死亡の原因について研究をすすめていけばいくほど、多くの幼児が天然痘やしょうこう熱で死んだだけでなく、不適当な食事やとてもひどい世話のやり方のためにも死んだことがわかってきた。すなわち、(母乳ではなく)小麦粉と水のまぜたものを与えたり、(経験豊富な産婆が注意深く分娩させるのではなく)野蛮きわまりない方法で分娩したり、(あたたかい産衣につつんで、幼児をやさしくあやすのではなく)幼児を包帯でかたく巻きつけたまま、何時間もほうっておいたり等々。われわれが扱っている社会は、妊婦が陣痛のはじまる直前まで野良仕事をし、母乳をやるのはほんのときどきで、早く離乳をさせ、そして幼児の命にはほとんど価値がおかれていない社会なのである」ix.